『河口が見えたのに』ーーー35

   *   *


 私と室井君は、昨日の部屋で朝食を食べた。
 ここからでも見える。畑はめちゃめちゃだ。
 数ヶ月前に蒔いた種は芽を出したが、その後、雑草の駆除も肥料を与えることもしていない。苺畑を囲む一番面積の広い私の茄子の畑。
 雑草や害虫に養分を吸いとられて、折角成った実は細く、皺とともに萎んでいる。
 まるで、今の私……。
 室井君は、美味しそうにベーコントーストにがっついている。
 彼が羨ましい。
「何ですか?」
「何でもない。君が男前やなァ、思うて…」
「変なこと、言わないで下さいよ。……噎せます…」
 男前で、私より若くて、独身で……。
 それに、何より、彼には未来がまだある。
「先生、……ちょっと気になったんですけど、前に来たとき、成り行きで上の寝室へ行ったんですけど……あの壁面一杯の時計は?……」
(やっぱり気になるか……)
「あれはね、……私、君も知ってるこの近所のZ教育大へ通ったんやけど……その時は、私も若かって、大学四年間で六人の男の人と付き合ったんや……恥ずかしいなァ、君にこんな話するのは……そいで……付き合ういうても、君らの世代が考えるような付き合いやないねん。……」
「・・・・・・」
「私、一年の時からテニスの同好会に入っとったんやけど、皆、その同好会の人やった。……始めは嶋田君、あっ、余計なこと言うてもた私……」
「気にしないで下さい、先生と僕では、世代もテリトリーも違いますから」
「背が高うてなァ、……丁度、今の君くらい有ったかもしれへん。学生やから、それに嶋田君、それまで運動してない人やったから、かなり細かった。………せやけどなァ……、死んでもた。夏休み前、車に巻き込まれて……」
(何でやろ、私、旧いことやのに、泪が出てくる……)
「……そいで、その三日まえに、彼がひょっこり私のアパートに来たことが有って、……そのとき、僕らは、プラトニックやけど恋人やろう。その証しに時計を交換しよう言うたんや……それが、あの床に置いてあったセイコーのツインクォーツ、あの白い文字盤で角型の……それから、彼が亡くなってから気持ちが立ち直った頃に横山君と付き合いが始まった。その人もテニスの同好会のメンバーで、私より一年、先輩、……ところが、横山君は哲学書を、その当時読み耽ってて、……彼は、その年の大晦日に斉斉湖って湖あるやんか、Z大の近くに、……そこに入っていって死んだ。……彼には時計は貰ってなかったんやけど、お父さんに形見に欲しい言うて、貰うた。……」
 室井君が泣いている。
「こんな変なこと、有ると思う? それから後、四人、同好会のメンバーと付き合うたけど、……皆、アタシと付き合うて半年以内に死んだ。……私は、大学では居りづろうなった。……せやけど、教師に成るのが目的やったから、友達も一人も寄り付かんなって孤独やったけど、最後まで通うて単位とって卒業した。……あそこに有る腕時計は、みんな、私と付き合って死んだ男の人のん。……それから、私、時計を集める癖がついてしもうて……それに今度は、私に残された時間が少ないと自覚したら余計集めるようになった。……そういう訳」
(室井君。そんなことはどうでもええねんで……私は君のことが好きや。……その君の一本気さが……)
 室井君は、鼻汁と一緒にコーヒーを啜っている。
「小沼さん」
(ん~もう、ドキッとする。急に接近して抱きすくめられたみたい……)
「あの、柱時計は毀れてるんですか? それで毀れてるとして、何で四時四十分を指してるんですか?」
「毀れてないよ……唯、ゼンマイ式で毎日巻かんと止まるから、わざと止めとんねん。……時間は、何か、宗教の本、色々読んでみたら、夜中のあの時間が一番生きとる人も死んどる人も霊の交流が起こる時間やいうて書いてあったから、それで……」
 室井君は、朝食を食べ了えたようだ。
(本当は……、ずっと…………)
「先生。……僕、ずっと、当分、ここに居てもいいでしょうか? 否、僕がそうしたいんです。……先生さえいいなら、先生の最期の時まで居させて下さい」
「そんなこと、思たらアカン。……それは我が侭や。君にも家族が有るんだし……」
「否、居させて下さい。……先生の今の、自分の人生が不本意な時期に断ち切られようとしているのに、……孤独な終わりではいけません。…………一寸、家に電話をさせて下さい。連絡さえ入れていれば、母は、そんなに心配しませんから……僕は、……先生がどう言っても、ずっとここに居ます。僕も居たいし、先生も仕合わせな濃密な時間を持つべきなんです」
(純一君……)


 室井純一は、自宅に電話を入れた。
 電話が終わった後、彼の顔は蒼白に変わっていた。
「何か有ったん?」
「友人が死にました。……僕の一番の友人です。千人にただ一人の友です」
「私のことは気にせんと、……そんな大事な人やったら、お通夜に行ってあげて…」
「いえ、……いいんです。……今、決めました。どんな事情が有ったにしろ、もはや、死んだ者は死んだ者です。…………かと言って、彼に対しての人情を欠いた事にはなりません。……生きている時は、誰よりも深く赦すことのできた友なのですから……」
 佐伯圭吾が死んだ。
 自宅で首を吊って、……死んだ。
 何故なのか?
 借金の問題は、もう済んだ筈ではなかったのか……。
 外では、雨の降り止んだ水平に拡がる畑に、季節を間違ったような涼しい風が、茄子の茎を揺らしていた。実っているのに痩せているなすびの実をも揺らしていた。


 佐伯は、俺にとって真の友だ。まさに千人にただ一人の友だ。近年、つき合いがないとは言えどんな形で決別しても、すぐに接続詞など用いずお互いに心許せる男だ。
(佐伯! 何故断った。この現世という五感の悦びで満ちた世界を!
 お前の方が、唯、死ぬという選択肢だけは、自分にはないと、いつも言ってたじゃないか……。)
「室井君……、大丈夫か?……」
「大丈夫です。……死ねば、この世の者にとっては、腐ってゆく個体でしかないんです。……『死人のことは、死人自身が思い煩うであろう』…………その通りです」


 それから、午前中が過去をつくりつつ速く過ぎていった。
「先生、……普段はこの時間、何をされてるんですか?」
 俺は、居座った。
「最近は、洗濯と調理するのがやっと……いう感じや。体が動かへんから……」
 死の病い持ちなのに、路子は煙草を吸った。
 一時間に二本くらいのペースで……。
 煙草をくわえていない時の路子は、明らかに魂が抜けている。多分、本人にしたら、時間が跳んでいるのだろう。俺も昔、そんな精神状態だったときがある。
(酒に浸かればいいのに……)
 と、思うのだが、身体のことを思うと、迂闊に勧めることは出来ない。
 そんな時間のなか俺は洗濯機を回し洗濯物を干し、人生で初めてお粥を創った。

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