『河口が見えたのに』ーーー36

 昼から路子は写経をはじめた。
「他の宗教は、理念的なものが分からへんねん。……それに、もう時間がないのに聖書を端から読んで理解してゆくのは無理やと思うし、……仏教かて教義は全然分からへん。……ただ、お経には、文字自体に力が有ると思うから……」
 路子は、そんなことを言って、もう四冊目になる大学ノートに般若心経と弘法大師和讃を書き写していった。
 それは、俺にとって初めての同棲生活というものだった。
 調理と買い出しと洗濯と掃除は、俺がやって、路子の方は、午前中は唯まどろんで一時間に二本の煙草を吸っていた。午後は、唯、写経だけをしていた。
 TVも見ない生活は、時間を贅沢に長く感じさせた。
 彼女は日ごとに細くなった。
 食欲は充分あるというのに。
 肌の色は、或る日を境にだんだん白くなってきた。
 三日に一度と決めて、俺の介助に頼りながら路子は風呂に入った。
「私の病気、変わっとるやろ。肺ガンやったら、こんなに血は吐けへんらしいねんけど、お医者もそれを不思議がっとったわ」
 一日に吐く血の量が、一八〇ミリが二〇〇ミリになり、二〇〇ミリが五〇〇ミリになり、回数が多くなり、今では七〇〇ミリくらい純血を吐いていると俺から見て察する。
 そんな彼女なのに、俺は、昼となく夜となく性をもとめた。そんなに頻繁には必要ではないと、路子が拒むこともあったが、俺はもう力のなくなっている彼女に抱合した。
 本心では、路子の方が求めていたのかもしれない。

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