『河口が見えたのに』ーーー2

      プロローグ


「へーえ、そうなんだ君も夢があるんだ」
 吉里(よしざと)ちえは、懐から感心して言う。
 六畳の男子用の寮室は、この時期にはさすがに暑い。床張りの上に畳が六畳。畳のない端にはつくりつけの二段ベッドがある。それしかない扇風機だけを回して涼をとる。二人部屋なのだが、もう一人の社員はまだ決まっていなかった。
「そいでも、東京へ出てきても、まずは食べていかなしゃあない。俺、アパート借りるのに敷金・礼金なんか要るの、知らなんだから」
「一度、室井君のドラム、聴いてみたいね」
 派遣女子寮は、別の場所にある。歩いて五分ほどのところだ。
 八時に残業を終えて、二人でウィスキーの水割りを飲んでいる。家具というものはほとんどない。家から送ってもらったステレオカセットだけが、純一の財産である。
「この曲、誰がやってんの?」
「浪速エキスプレス」
 シャワーもまだな二人の体臭が部屋にこもる。
 身長百五十五センチメートルの丸顔のちえは、まあ、この時代の日本の標準といった娘だ。純一のタイプではない。しかし、若いがゆえどうこうなるというのが当たり前なのだが、純一には、今、ドラマーとして成功すること以上の関心事はなかった。
「こういう曲ってさあ、何ていうジャンルなの? 歌のない曲」
「フュージョン。ジャズとロックが混ざった音楽がはじまって、クロスオーバーっていうんやけど、それが今、フュージョンって呼ばれてるんだ。……凄いドラムやろ? これ」
 東原力哉の細かいスネアの連打とタムタムを混ぜたソロがつづく。粘りつくスネアの打音とカウンターを入れてくるフラットするタムタム。もこもこと残響するバスドラムの低音。馬に鞭を入れるほどの強烈な表革とリムを同時に叩くリムショットが、思いきり享んだタムタムを元の時間に閉じ込める。
 宴会を切り上げようと、俺はコーヒーを入れた。明日も朝八時からである。
「何、それ、変わったことするんだね」
「うん。豆は買うたんやけど、ドリップフィルター買うの忘れたんで」
 ハンドタオルを四重にして、俺は、モカシンを濾した。
「吉里さんも、頑張ってね。夢に向かって努力しない人間なんてしょうもないし、僕らはまだ、可能性のかたまりなんやから」
 吉里ちえは、神奈川の実家から独り立ちするために、この派遣会社に入った。脚本家になる、といつも話している。
 新宿で登録した俺たちは、偶然、この埼玉の東翌金属に回されて邂逅した。
「しかし、暑いときに熱い仕事やなあ」
 そんな内容をお互い口にして、二人はその日わかれた。


 東翌金属の仕事は、建築に使うL字鉄鋼を創ることだった。
 まず、溶鉱炉があり、チューブの原理で押し出された合金がオレンジ色のまま、ゆるやかな坂を降りてくる。それを合計七回の圧延ローラーに通すことで、合金は徐徐に冷めつつ、L字型に成型される。舟のような形の、両端がすこし傾斜して坂になった棚の各所に、流された鉄鋼材を止めたり流したりするための電気モーターで駆動するローラーがついている。そのローラーは、圧延するローラーとも連動している。
 俺の仕事は、その数カ所のローラーの動作・反転動作・停止をタイミングよく行う制御ボタンを押すことだった。
 今のところ、鋼材は順調に流れていた。
 但し、すこしでも失敗すると停止している圧延ローラーに鉄鋼棒は押しつけられ、傾斜と、間違った向きのローラーの回転とに押されてスピードのついた鋼材は、冷めない半溶解の鉄のまま人間が尻を突きだすように変形し、たちまち倒立するように地面に鉛直に立ち上がる。やがてそれは、引力によって東西南北、カオス的に倒れる。ラインのすぐ傍では、他の作業員が別の不良品の処分などの仕事をしている。その作業員に、鉄鋼材は容赦なく襲いかかる。
 仕事で注意しなければいけないのは眠けだ。
 その日も途中までは、いつも通り快調だった。
 十一時になって、正社員の五十過ぎの男が、
「次は、別のロットを流すから」
 と言った。
 これがいつもとは勝手が違っていた。いつもより細い鋼材なので滑るように流れる。また、なぜか圧延ローラーを停止するにも少しの余韻がのこるほど待っていなければ、圧延ローラーに巻きつくという始末だった。冷や汗をかいている俺に、正社員の一人がコツを教えに制御場所まで上がってきた。
「こうやって、ここまで押しとくんだよ。その時、同時に、こっちをスタートさせて。色んなとこ、同時に見てないとダメだよ」とか彼は言うのだが、操作のほうはぎこちなく、何とかさばいているに過ぎなかった。
 俺は、再び制御盤についた。しかし、一時間経ってもロスはなくならなかった。
 火の柱が彼らを襲うたびに、下の現場作業員から怒号が飛ぶ。
「早退きさして下さい。ちょっと、お腹が痛いんです」
 と、俺は言って、別の派遣会社から来ている四十代の男性派遣社員に持ち場を替わってもらった。
 日の光で鉄粉の舞いたつのが見える工場を後にし、併設された寮に戻った。
 インスタントラーメンを食べる。
 お腹が痛いと言った手前、給食を食べるわけにはいかなかった。
 昼の一時半に工場内の非常ベルが鳴って、つづいて言葉の輪郭のはっきりしないマイク放送が有った。
 第一工場が騒がしい。
 数分して、救急車のサイレンまで聞こえたので、俺はゆっくりと部屋から出て、工場へ向かった。
 人だかりが出来ていた。作業員の人やまの奥を覗くと、吉里がヘルメット姿のまま担架に乗せられようとしていた。顔の血の気がない。顔から下へ目をうつすと作業員によってみじかく両端を落とされたL字鉄鋼が胸に刺さっている。
「ほぉーーー!!」
 俺は、半狂乱になって、彼女に近づこうとする。
 肩を落とす、俺と替わった社員。俺は、その派遣社員の胸ぐらをつかむ。
「ほぉーーー!! ほぉーーーー!!」
 俺は、知能の低い人間ではない。しかし、言葉が、文章が出てこない。
「ほぉーーー!! ほぉーーーー!!!」
 俺は、叫びながら、社員の胸ぐらを前後に揺さぶる。
 他の正社員たちが俺を制する。
「仕方ないって、君のせいじゃない。それに、この人のせいでもない」
 派遣会社は労災保険を備えていなかったので、死んだちえには、見舞金が出ただけだった。
 俺は、派遣会社も東翌金属も辞め、東京で、また、あらたな仕事を探した。


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