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橋爪大三郎、大澤真幸、共著『ふしぎなキリスト教』読了(追記あり)

橋爪大三郎さんと大澤真幸さんの対談、『ふしぎなキリスト教』を読みました。


ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/05/18
  • メディア: 新書

例によって、感想は、追記をお待ちください。

追記・感想

ユダヤ教、イスラム教は、一神教。

そして、キリスト教も一神教なのである。

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キリスト教には、戒律がない

ユダヤ教、イスラム教が戒律を重視するのに対し、キリスト教は、戒律はない。

ここが大きな違い。

仏教は、悟り、原理の世界。

儒教は、政治的道徳の世界。

インドにも、元来アニミズムの神々が居るが、仏教画では、釈迦だけが悟りを得た超越

者であり、神々は幼稚な存在として描かれている。

社会学者と社会学博士との対談。お二人とも、キリスト教の構造については造詣が深い

が、未知の部分もあり、それをお互いが補完して解説するという形の対談になっている。

ざっと全編を読んだところで、私にとって新事実だった聖書の解釈やキリスト教の在り

方を中心に紹介してみたいと思う。

神のされることは皆正しい

旧約の「カインとアベル」の逸話で、神が穀物を捧げた方を喜ばれなかったのは、捧げ

物にごまかしがあったからではなく、単に神が、「良し」とされなかった、という事実。

一神教では、神のされることは皆正しい、とする。

すべての物事が、神の意志によって起こっていると考える。しかし、不条理もある。原

因が自分にはない不条理にも、人間は耐えなくてはならない。そこで、不条理は、神の試

練だと考える。

祈りは聞かれなくてもいい

悪環境から脱出したい、と祈っても、実現せず幸福になれないことがあるが、キリスト

教は、悪環境に自分があることで、神に願う形で祈りを実践することになる。祈りは、神

との対話なので、祈りが聞かれたかどうかが大事なのではなく、神と対話する時間を長く

持つことが大事である、と。

人間は、生活に必要な物を獲得する能力が高い。それゆえに、他人の物を横取りしたり

するケースがある。もっと広い意味でも不公平が生じる。紛争や殺し合いも起きるので、

セキュリティーが必要になる。一神教は、どの現象の背後にも神々がいるとは考えない。

この世界に神などいなくて、すべては法則と宿命によって決まっている、とも考えない。

紛争を政治家のリーダーシップによって解決してもらう方法もとらない。この世界は、有

限で罪深くて不完全であるが、その背後に、完全な能力と意志と知識をもったGodとい

う人格がいて、その導きによって生きている、と考える。それゆえに、神との対話、祈り

が大事なのである。

グノーシス主義は、キリスト教の異端。善悪二元論なので、不完全なこの世をつくった

のは悪い神であるとして、本物の善い神は、悪い神とは別にいると考える。

日本は、異民族の襲来を経験していない。だから、アニミズムだけで来ている。それ以

外の地域では、異民族の侵入や戦争や、帝国の成立といった大きな変化が起こって、いっ

たん社会が毀れてしまう。そこで、手近な神々に頼らない一神教や仏教や儒教が出てくる。

一神教の神(ヤハウェ)は、宇宙の外に居る。

偶像崇拝が、なぜ、いけないのか

偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではなく、偶像をつくったのが人間だから。人間

が自分自身を崇めていることになるから。

仏教の場合、インドにはたくさんの神々が居たわけだけれども、その神々より偉大な、

真理を悟ったブッダがいる。「覚り」は、人間が宇宙をどう理解するかという問題であっ

て、神々の出番はない。

偶像崇拝がいけない、という論理は、マルクス主義にもある。

資本主義がいけないのは、疎外→物象化→物神化というプロセスによって、人間の労働

がほんとうの価値の実体なのに、それが商品になり貨幣になり資本になり、物神崇拝され

るに至って、自分がつくりだしたものをそれと知らずにあがめている転倒した世界だか

ら、とマルクス主義ではしている。この論理が、ユダヤ教、キリスト教の発想とそっくり。

【一部本分引用】

神は、この世界の外に居て、人間とは連続していない。だから、人間を崇拝してはいけ

ない。偶像崇拝になる。

聖櫃(せいひつ)についても、その由来、なぜ存在したのかという意味についても語ら

れている。詳しくは、本編に譲る。

神の概念。神のイメージ

バビロン捕囚のあいだに、旧約聖書の『創世記』以下の神話の部分がつくられた。

神は、宇宙の外に居る存在なのに、人間に似ていてエデンの園を歩きまわったりしてい

る、という矛盾。神は、人間に似ているが似ていない、と考える。四次元の怪物が三次元

に投射されたときに人間に似ている、ということではないか、という考え方の提案。

ヴェーバーの「神強制」と「神奉仕」。呪術にある神々。そういう神々は、超自然的で

あるが、人間の側が捧げ物をしたり儀式をしたりして働きかける。人間に使役され、強制

されて、その力を発揮する。人間と超自然的なものの、どちらが偉いかわからなくなる。

人間が権力をもつことを警戒し、権力を肯定しないのが、ユダヤ教の特徴。

ユダヤ教では、神と人間との差異が圧倒的・絶対的であるから、すべての人が平等化さ

れ、王権を民衆がコントロールする。言うなれば、民主主義が自然に出来ている。

「科学的」と言われる世界観はユダヤ・キリスト教を否定したのではなく、それをより

徹底させた。

私の信仰は、聖書をそのまま「文字通り」に正しいと信じるものだが、キリスト教世界

では、聖書は矛盾を孕んでいるので、信徒がみなで相談して妥協案的な解釈をしている。

ちなみに、「三位一体説」は、聖書中には出てこない。三位一体説は、キリストを神とし

たときに、それでも一神教であるように解釈する必然から作られたものだろう。

聖書の記述と科学の理論や実験結果が違っている場合、端から聖書を否定するのではな

く、福音派の場合、キリスト教と矛盾しない限りで科学を信じる。キリスト教多数派の場

合、科学と矛盾しない限りでキリスト教を信じる。

外国の場合、キリスト教の信仰を持っていて、尚かつ科学者である人も多い。

ドーキンズは無神論者だが、創造説を何としても批判しなくてはならないという強烈な

使命感を見れば、その姿勢が宗教的であるとさえ言える。

イエスは、実在したのか?

イエスが実在したのを証明するときには、新約聖書の記述だけでなく、ユダヤ教側の文

献やローマ帝国側の文献を探して、複数の視点の違う文献にイエスが登場しないと確実な

証明にはならない。(これを、クロスチェックという)今のところ、福音書以外見付かっ

ていない。

しかし、橋爪さんは、福音書がイエスの多くの言葉を伝えていて、生き生きとした印象

を受けるので、イエスが実在したと確信されている。

キリスト教が成立したのは、パウロの書簡による。福音書は、後に新約聖書に採用され

た。

イエスの起こされた奇跡は、信仰生活をするときには信じなくてもよい二次的なもので

ある、とされる。

まあ、私の見解としては、奇跡をそのまま信ずるべきだし、起こった奇跡を偶然のもの

としたり、拡大解釈だと思わないつもりである。そうでなければ、民衆もイエスについて

いかなかっただろう。この点では、この本とは見解が異なる。

「人の子」とは、旧約聖書の預言に出てくるメシアの意味。

イエス自身は、自らを神の子とは言わずに、人の子と名乗った。

また、福音書は、キリスト教がいまのかたちに完成する以前に書かれているので、イエ

スが「神の子」であるかどうかに関して、及び腰である。

「処女懐胎」について。

イエスは、血族的には、ユダヤ人である、と、福音書の最初に系譜をつけたりして読者

を説得している。それは、ユダヤ人のなかから救世主が現れるという預言があったからだ。

しかし、預言者ではないイエスは、完全な神の子でなくてはならない。完結した人間存

在が百パーセント神の意志と合致している。最初から神の子として産まれている。神に遠

隔操作される信仰を持った人間や預言者ではなく、自身が自発的キャラクターとして神で

あるのである。そして、また、預言者は、人生の途中で神から召命を受けて預言者となる

が、キリストの場合は、神の子なので、最初から神の子でなくては辻褄が合わない。

「神の国」について。

神の国というのは、単なる天国のことではなく、最後の審判のあと、現れる地上天国の

ことである。バプテスマのヨハネもイエス=キリストも、この世界的終末が近いことを民

衆に流布した。

神の国には、娶ったり娶られたりはない。神の国では、選ばれた者たちが永遠の生を受

け。その隣で、選ばれなかった者たちが、永遠に火で焼かれる。そして、選ばれる基準は

神の意志にのみある。決して、善行を積んでも関係がない。この本の解釈からはずれてい

るかも知れないが、私の信仰生活と聖書の解釈を進めた結果としては、パウロが、「信じ

てバプテスマを受けるものは救われる」としているが、そのバプテスマも聖霊のバプテス

マのことであり、聖霊のバプテスマを神から受けるかどうかは、人間が決められない。

最初は、キリスト教を迫害していたローマ。途中から、そのローマの国教になったのが

キリスト教。ローマでは、世俗の政治権力と宗教的な権威が、きわめて明確に二元化して

いる。

キリスト教圏が経済的に発展できた理由

社会が新しい法律をつくれるかどうかに、社会が近代化できるかどうかがかかっている。

ユダヤ教もイスラム教も、宗教自体に細かい戒律を含み、それを重視するので、法律を

つくるのはどうでもいい、ということになってしまう。すべてコーランのなかに書かれて

いる、とする考え方だ。ユダヤ教では、トーラーやタルムード。

キリスト教には、「神を愛し、隣人を愛する」という規範以外ない。だから、禁止され

ていないことは出来る、と考えて、どんどん新しい法律をつくって、とくに経済を発展さ

せた。アメリカもそうだろう。

人間の行動(人間の業(わざ))が、救いに影響するか、という疑問。

する、という説と、しない、という説がある。

人間の行動が、神の意志決定に影響するとすれば、相互作用になってしまう。これに反

対する考え方が、神は、「後悔する神」である、ということ。ノアの大洪水などは、ご自

身がつくられた世界を悔やんでおられる。それで人類を一掃されようとするが、よく見る

と義人のノアが居るので、彼と彼の家族だけを助ける。

救われる人が、予め神の意志によって決まっているのだから、勤勉でないほうが得とい

うことになるが、勤勉であることは、神の恩寵を受けているからだ、と考える。この説に

ついても、宗派により違いがある。

カントは、キリスト教の信仰とは無関係に、普遍的道徳、定言命法を編み出した。しか

し、これが、カントなりの隣人愛とも言える。キリスト教とは離れた立場から追求した道

徳が、結局はキリスト教の道徳と一致しているということの妙。

日本人が物作りに長けているのは、アニミズムであるから。ものにスピリットのような

ものを感じる。一神教や仏教の世界では、モノに入れ込みがない。上手く作れるのだが、

何か考える人のほうが偉い、という価値観である。

イスラムは、市場経済に適性があるが、イスラム教が利子を禁じているということがあ

る。インドは、カーストがあり、労働力市場が完全に開かれていない。製造業を興そうに

も、製造業に従事してくれる人がいない。ITなら問題ない、ということで、ポスト工業

化の時代になって、インドの発展が加速した。【本文引用】

中国やインドが強くなっているので、グローバル化を進めるときに、キリスト教文明が、

非キリスト教文明のルールを承認せざるを得ない、という状況も起こっている。

後半は、社会学的に見た、現在の世界の認識であった。

いずれにしても、今までは、キリスト教文明国が、経済を主導していた。法律がつくり

やすいので、経済を活性化させやすかった、という側面がある。

ユダヤ教徒のキリストへの認識

ユダヤ教徒は、キリストをメシア(救世主)だとは思っていない。まだ、旧約の預言が

成就していないとみているのである。

神が、人間の姿をして地上に現れたとするから、一神教の論理としてはかなり無理があ

るのだが、それを、今や三位一体説によってキリスト教徒は受容している。

この本では、社会学的にキリスト教を捉えているが、信者として信じ切って聖書を読む

人もあり、その場合は、この本に書かれている解釈とは違う解釈を信者はしている。

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聖書は、昔は一般信者には手に取れないものだった。

カトリックやロシア正教では、聖書は多国語には翻訳されない、ということがあり、聖

書を自分のもの(知恵)として受け入れる準備が出来ていなかった。イコンやロザリオや

絵画を通して、神々しい雰囲気を末端の信者は授かる、ということでしかなかった。

プロテスタントでは、最初から翻訳が盛んだった。

自分の知恵として聖書を読むのであるが、それでも矛盾はある。

聖霊に感化されて読まないと、正確な意味はわからないものである、と、私は考える。

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