篠田節子さんの、『秋の花火』です。
まだ、読了していませんが、読了間近です。
全体の感想は、読了後、追記で書きますが、
内容は、読みごたえもあって良いのですが、一つだけ、文章の表現が、ひっかかって腹が立って、という表現があります。本文中に三度以上出てきます。
何故、登場人物や主人公が、年上の人や恩師の奥さんを心の中で回想する時、誰々の『妻が』という表現を使われるのか、さっぱり分かりません。
先日、NHKのアナウンサーも、こういう間違った表現を使われていました。
登場人物の相手に対するシニックな感情を表現する為に使われているのだとしても、私から見るとアウトです。シニックな感情は、他の文章でいくらでも加筆できる筈です。
『妻が』という言い方は、自分で身内を相手に紹介する時にしか使わない表現です。神の視点での文章なら成り立つかもですが、登場人物や主人公の目線で、何ともなく、こんな表現を使われるのは可笑しいでしょう。
全体の感想は、後日追記で書きます。
篠田さんは、尊敬しているので、この部分だけ変えて欲しいと思います。全面的な批判ではありません。済みません。
追記・感想
40代の男女の恋愛。また、両想いには至っていない相手をいたわる淡い恋心を描いてある。
五作の短篇。
『観覧車』では、こういうシチュエーションあるよな、と思う。婚期を逃した男女の触れ合い。余談ですが、甲斐バンドの曲にも、観覧車に取り残される内容の歌がありましたね。
『戦争の鴨たち』が面白かった。
タリバーンの動きに世の中が過敏になっていた頃、こういう社会状況も、いずれ小説にする作家が出てくるだろうなぁ、と思ったし、既に沢山、テロや中東情勢やジャーナリストや民間人が人質になったストーリーの小説もあるのだと思う。
最後の最後で、実は事件自体が…、という展開には良い意味で裏切られ爆笑した。流石、エンターテインメントだと思った。
『ソリスト』も良かった。
外国の大家のピアニストが、何故、ショパンの曲をピアノ一台だけで演奏しなくなったのか。いつも、アンサンブルという形態をとるようになったのか。
その謎が、いつまでも謎のまま物語は引っ張られる。
土壇場でキャンセルしたり、会場入りが頻繁に遅れたりする理由も、ソロで弾かない理由と同じ理由からであった。
幻覚として現れる彼女に迫る圧政のなかで犠牲になった仲間たち。この描写では立ちのぼるような亡霊の姿がありありと浮かんだ。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の最後の、村全体が消滅してゆく描写を連想した。
全編、音楽の演奏シーンの描写が細かく、演奏家の心の動きも鮮明に描写されていた。
『秋の花火』を読むと、もう、私の歳でも、人生の晩年が近くなっていることを思わせられる。
ロマンチックな恋ではないにせよ、人は一生恋愛(片想いを含む)をして生きていくものだなぁ、と感じさせられる。
妻子がある人も独身の人も35歳や40歳を過ぎると、相手をいたわる気持ちや、子供を見てけなげでいじらしいと感じる気持ちが強くなってくる。
奪う愛から与える愛(労る愛)に変わっていくのだな、と、同感した。
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