『それをお金で買いますか(市場主義の限界)』読了(追記あり)

 マイケル・サンデル氏、著の、鬼澤忍氏、翻訳の、『それをお金で買いますか(市場主義の限界)』を読みました。

それをお金で買いますか 市場主義の限界

それをお金で買いますか 市場主義の限界

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2012/08/01
  • メディア: Kindle版

 例によって、感想は、追記をお待ちください。

 

   追記・感想

 あらゆるものが売買される時代。それが現代。

 そんなもの(或いは、こと)まで、お金で売買していいのか、と、倫理道徳の角度から

問う。

 そういう売買には、格差の問題も生じてきている。貧しい者は、高度な医療(臓器売買

を伴う)などが受けられないという現状だ。また、お金を払えば相乗り車線を一人乗りの

車で走ることが出来るなど、お金持ちに有利な現状だ。

 たとえば、私の身近な知っている例で行けば、自治会の役員になる義務を免除してもら

う代わりに、自治会費を余計に支払う、というようなこともある。

 お金で、どんどん快適な暮らしを得ることになる。色んな物事を、お金に換えて、お金

さえ払えば済むようにする。

 市場の論理からすれば、物事をお金に置き換えて売買することは、経済を活性化するこ

とにもなるし、対価を払うという意味でもあり、双方が利益を得ているので、何ら問題は

ない。

 しかし、それでいいのか、と善ありし正義の観点から問うのが、本書である。

 付箋を追う。

 健康、教育、家庭生活、自然、芸術、市民の義務などの価値をどう測るかは、道徳的・

政治的な問題。単なる経済問題ではない。ゆえに議論が必要。

 予約をとっても、長い待ち時間を待ち、診察はたった3分という総合病院の現状がある。

これは、医師と患者の数の対比にもよるものらしい。そこで、コンシェルジュドクターと

いう制度が出てきている。医師は、総合病院ではなくコンシェルジュドクター向けに創ら

れた病院に在籍する。患者は、高い年会費を払うことで、待ち時間なし、予約なしで、し

かも長時間の診察を受けられるという制度だ。それを開業する医師が導入するケースが増

えているという。アメリカでの話であろう。しかし、総合病院から抜ける医師が増えるこ

とによって、ただでさえぎゅうぎゅう詰めの診察枠に、患者を詰め込みすぎることにはな

らないか。これは、格差の問題である。不公正ではないのか、と。

 観劇したいときに、行列に並んでチケットを買う。これを代行行列会社が当人に代わっ

て並び、行列には並ばないでチケットを入手する方法が出てきた。そこには、金銭的イン

センティブが加わる。だからよいのではないか、という議論だが、社会的効用を最大化し

ていると言っても、劇を高く評価した人が優先的に見られる、という図式にはなっていな

い。市場に反映されるのは、支払い意志だけではなく、支払い能力でもあるからだ。

 移民の権利。私は詳しくないので永住権を指すのだと思うが、これは、厳しい規定をク

リアしなくては本来もらえない。これを金銭的インセンティブを支払うことによって得さ

せる動きとなった。多額の移民料を支払う意志のある人は、自動的に望ましい特徴を備え

ているはず。若く、特殊技能を持ち、野心に燃え、懸命に働く可能性が高い。この案の場

合、高額の移民料を支払う意志のある人であれば、政府がお金を貸すなどして、永住後の

収入から所得税で返してもらえばよい、という形で具現化した。

 保育所に子供を迎えに来るのが遅い親に、遅れた時間によって罰金を支払ってもらう、

という対策を実行したら、結果、金さえ払えばよいのだから、と、迎えににくるのが余計

に遅れるケースが増えた。罰金が、遅延料を支払うサービスという風に受け止められてし

まったのだ。

 また、罰金そのものも、自分の心のなかではサービス料金と受け止めて、平気で道路交

通法を破るケースもある。忙しく働く健常者の建設業者が、作業現場の近くに駐車したが

っている。彼は、身障者用のスペースに駐車できる便利さと引き替えに、やや高めの罰金

を払ってもいいと思っている。それを仕事上のコストと考えている。こういったケースだ。

 裕福なドライバーのなかには、スピード違反切符を、好きな速さで車を運転するための

代価だと思っている人もいる。フィンランドでは、そうした考え方(または運転)は法律

によって厳しく断罪される。【本文引用】

 700万ユーロの年収のあるサロンオヤに、40キロのの速度超過に対して、21万7

000ドル(当時の相場での米ドル換算)の罰金が科されたという。

 社会は、危険な行為による損害の埋め合わせを望んでいるということだけではない。罪

に見合うーーーまた罪人の預金残高に見合うーーー罰を望んでいるということでもあるの

だ。【本文引用】

 環境汚染の問題は、金銭的インセンティブを支払うことでは解決しない。ゴミ問題など

は、温室効果ガスほど代替的ではないからだ。

 『お金を払ってサイを狩る』の項では、絶滅危惧種のアフリカのクロサイを、15万ド

ルという金を払えば、一頭撃ち殺すことが出来るのだ。地主が牧場を野生生物に捧げる金

銭的インセンティブの足しとして、お金が流れている。野生動物保護にも適っているし、

地主もハンターも得をする。だが、娯楽のために野生生物を殺すのは道徳的に好ましくな

いと思っているなら、サイの市場は悪魔の取引と言える。【一部本文引用】

 「インセンティブバイズ」という造語。(通常は金銭的な)インセンティブを与えるこ

とによって、(ある人物、とくに従業員や顧客)を動機づけたり励ましたりすること、と

いう意味である。1968年の登場したこの言葉が、この10年でよく使われるようにな

ってきた。しかし、道徳的動機の職業に、インセンティブバイスを適用すべきなのか。

 養子に出された赤ん坊の割り当てに市場を使うように提案したボズナー判事。これは、

あってもよいことだが、高い道徳性からみると好ましくない。

 友人やノーベル賞は、お金で買えない。腎臓や子供は、お金で買えるが、まず間違いな

くそうすべきでないものである。

 贈り物がもたらす福祉を本気で最大化したいなら、プレゼントを買わずに金券やお金を

あげることである、と言える。しかし、これは経済学的な論理である。贈り物には、シグ

ナリングが含まれている。且つ、贈られる側は、あまり平凡ではない何か、自分では買お

うとしない何かを贈り主に買ってほしいと願っている側面もある。お互いに役に立つこと

が友情のすべてではない。【一部本文引用】

 放射性廃棄物の貯蔵場所、核廃棄物処理場の候補地になった村へ、金銭的インセンティ

ブで村民に理解を求めようとしたが、却って逆効果だったらしい。(スイスでの話)こう

した補償は現金よりも公共財という形をとったほうが受け入れられやすい。公園、図書館、

学校の改築、公民館、ジョギングコースやサイクリングコースなどである。

 「馬鹿にしてるのか」という感覚になるのだろう。安全性を説明した上で、尚かつその

土地が一番ふさわしいことを説明し、納得してもらえばむしろお金は要らない、というの

が人間の心理なのである。

 高校生のモチベーションに対する金銭的インセンティブの影響を探る実験が行われた。

 ガンの研究や障害児の援助のための募金だったのだが、同じく寄付の目的の重要性を説

く短い激励のスピーチのあとで送り出されたメンバーのうち、集めた金額に応じて報酬を

出すと告げられたグループは、無報酬のグループよりも成績が悪く、さらに報酬の額とし

ては、多くを約束していたグループのほうが少ない報酬のグループよりも成績がよかった

らしい。このことからの教訓は、人々のやる気を引き出すために金銭的インセンティブを

利用するなら、「たっぷり払うかまったく払わないか」のどちらかにすべきだ、という結

論になる。【一部本文引用】

 お金を払って善い行いをさせることで、その行為の性質が変わってしまう、とも言える。

 内因的動機と外因的動機。内因的動機(たとえば道徳的信念や目の前の課題への関心)

で行動しようとしている人に、外因的動機(お金をはじめとする有形の報酬)の金銭の提

供を申し出ると、彼らの内因的な関心や責任を「締め出す」ことによって、動機を弱める

ことになりかねない。というのが、社会心理学における多くの研究の帰結である。

 輸血用の血液を、献血だけで賄っている国と、アメリカなどのように、売血も受けつけ

ている国もある。どちらが望ましいかは議論がある。しかし、一つ言えることとしては、

人々の利他精神には限りがあるのだから、献血という行為で利他心を一部つかってしまう

よりは、売血できることにしておいて、他の分野に利他心をまわせば、もっと理想的な社

会になるだろう、という考え方もある。

 愛は、蓄えておくべきなのか。それとも、実践することによって拡大するものなのだろ

うか。市民的美徳も、温存しておくべきなのか。使わないと衰えるのか。この問題には、

今のところ結論は出ていない。

 会社が社員に保険をかける。しかも受取人が会社である。そういった保険が台頭してき

た。家族は、心情として納得できないケースも出てきたが、考え方によっては、一人前に

働ける戦力を会社は突如失うのだから、その社員から派生する損失をカバーしよう、とい

う考えでもあるのだ。しかし、これが額的にいささか行きすぎているようでもある。

 死期の近い患者の保険を買い取らせて、買い取った人が患者に代わって保険金をかけつ

づけ、死亡したときに保険金を、買い取った人が受けとる、というシステムも出来ている。

 こんな内容を読んでいるうちに、ふと思ったことがある。昨今の健康ブームは、マトモ

な保険が充分に収益を上げられるように、なるべく長生きして保険金をかけつづけ、死亡

による保険金の支払い総額を減らすために保険会社が煽っておこしているムーブメントな

のかもしれない、ということだ。

 用務員保険、バイアティカル、デスプール。こんなシステム(金融商品)が出現してい

る。詳細は本編に譲るとして、いずれも、賭けの要素があり、ターゲットが早く死んでく

れると参加者が儲かる、という構造だ。

 現在では、いったん(被保険利益に基づいて)生命保険をかければ、第三者に売却する

ことも含め、保険を好きなように扱ってよい、となっている。生命保険も金融商品なのだ。

 死亡債というものもある。誰の保険を買った、という形を明確にしなくて、多くの投機

家が参加し、様々な疾患を持つ患者の保険を大口の塊として購入し、死亡保証金が出れば

出資者に分配する、という方式である。

 最終章では、スカイボックス化、が語られる。

 あらゆるスポーツの観戦に、富裕層だけが利用できる高額のシート(スカイボックスに

代表される)が登場してきたのだ。

 野球やアメリカンフットボールの観戦は、どんなに裕福な人も、工場の労働者も、同じ

スタンドに居て一体感を味わいながら一喜一憂したものだったが、今や、富裕層と貧困層

の観戦する場所が、隔絶されている。競技場の命名権の売買も頻繁になり、地域を連想さ

せるスタジアムの名称も消えつつある。プロダクトプレイスメントが浸透して、サッカー

のゴールのたびに企業の宣伝文句がはいる。または、選手のプレーや反則のことを、企業

の商標名に置き換えてアナウンスすることもある。

 これでよいのだろうか。嘆かわしいことである、と、内容としてはそういう意味のこと

をマイケル・サンデル氏も述べられていた。

 感想としては、リバタリアニズムが行きすぎれば、今のような社会になる。しかし、誰

もに便益があって、誰もが納得しているなら、あらゆるものを市場化してもよいのではな

いか、という問いが出てくる。

 しかし、一方で、どうしても、「それをお金」に置き換えることが出来ない物事もある。

 格差が拡がっているところに、富裕層だけがより多くの便益を得る、といった事態も起

きている。

 今回は、マイケル・サンデル氏ご自身の頭脳のなかだけでの対句法的な論文であった。

 市場は、どこまで入り込むべきなのか。皆さんも考えて頂きたい。 

・マイケル・サンデルシリーズ→   『サンデルの政治哲学(<正義>とは何か)』の書評

                  『サンデル教授の対話術』の書評

                  

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