『サンデル教授の対話術』読了(追記あり)

 小林正弥氏・著、それに、内容をサンデル氏が語ったところが大半なので、敬意を表する意味からか、マイケル・サンデル氏も著者となっている、『サンデル教授の対話術』を読みました。

サンデル教授の対話術 ( )

サンデル教授の対話術 ( )

  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2011/03/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 例によって、感想は追記をお待ちください。

 

   追記・感想

 サンデル教授へのインタビュー その経緯

 サンデル教授の忙しいスケジュールを縫って、小林正弥氏がサンデル教授にインタビュ

ーした。前半は、その内容。

 東京大学でも、『白熱教室』が開かれることになったとき、世論としては、日本の学生

は恥ずかしがり屋なので、議論に積極的に参加して来ず、講義が成り立たないのではない

か、という意見もあったが、蓋を開けてみると、学生からは積極的な発言が多数でた。

 対話型講義が日本ですくない理由

 対話型講義は、日本ではなぜ少ないのか、といった疑問も、後半の小林氏の著述で述べ

られるが、日本の場合でも、小学校低学年などでは発言を促す対話型講義(授業)は以前

からあるのである。日本の場合、中学、高校と憶えなければならない知識が多くなり、必

然的に教師が生徒にテキストを読み聞かせるだけの授業になってしまっている。これは、

改善の余地があり、授業前に下調べをする、或いは、授業全体ではなくて、部分的に対話

型講義を導入するという手法もアリなのではないか、と書かれていた。

 対話型講義では、一般の人を含む講義を受ける側に、政治哲学という分野が向いている、

ということがある。

 サンデル教授は、コミュニタリアンだが多数派の意見を無条件に受け容れるという正義の導きだし方ではない。

 サンデル教授は、共同体主義を主張するコミュニタリアンであるが、多数派の意見を無

条件に受け容れるという正義の導き出し方ではない。この点は、この著作で強調されてい

る。

 前回の書評で、正義を善と切り離して考える、というスタイルをサンデル教授の考えで

あるように誤解させてしまう書き方をしたが、サンデル教授は、正義を、共通善、公共哲

学的考え方から、精神性、倫理性を含む正義(善ありし正義)を追究されている。

 コミュニタリアン的ご褒美のあげ方

 ご自身の息子さんの野球チームの監督をされていたマイケル・サンデル氏。野球好きで

あられる。コミュニタリアン的な思想の下に監督をされた。ホームランなどの個人的な達

成にはご褒美をあげず、選手の誰か一人でも、守備のときにバックアップをしてアウトに

持ち込んだ場合には、チーム全員に、スニッカーズのキャンディーをあげることにしてい

たとか。

 対話型講義を始めた訳

 対話型講義の動機は、ご自身が大学で講義を受けられていた経験から、ご自身が今でも

学生だったら、どんな講義だったら授業にのめり込めるか、といった考えで始められてい

ます。

 インタビュー部分の紹介については、割愛します。(是非、本編をお読みくださいね)

 経済力の高さが善き社会や善き生を決定づけるのではない

 GDPが世界第三位に落ちた日本ですが、イギリスなどは大きな経済力を求めることに

関心はなく、別の道を見つけているようにも見える。

 サンデル氏は、経済力の順位は、善き社会や善き生にとって決定的な問題ではない、と

仰有る。イタリア、フランス、ドイツ、イギリスを見てみれば、GDPではどの国も世界

の三位以内にもはいっていない。それでも、イギリスやドイツやフランス、イタリア、ス

ペインが意気消沈するというようなことはない。だから、日本がGDPで二位から三位に

なったことで意気消沈すべきではない。国民の満足度や幸福度、生活水準の高さの方が問

題なのだ、と、意味としては、そういうことをサンデル氏は仰有います。生活の質、民主

主義の質、正義に適う社会の問題といったより大きな問題の方が大事であると。

 この点では、私感想として思うのは、現代は既に物は行き渡っている、とくに、贅沢な

物を持つことが出来るかどうかが重要であるとは考えない、という考え方を持ちます。

 サンデル氏が展開する議論の在り方

 コミュニタリアニズムには、相互扶助の考え方である一方で、階層制や権威におもねる

という考え方の側面、考え方だけではなく現状としての状況があるわけです。その点に関

して、サンデル氏は、「私の議論は個人の権利に反対するものではなく、権威に挑戦する

ことに反対する議論でもなく、階層制に賛成する議論でもない」と、立場を明確にしてお

られます。サンデル教授が「コミュニタリアン」と呼ばれているのは、英米の伝統である

過度の個人主義を批判しているから。

 経済学では答えられない共通善

 共通善における公民的美徳を強調する。「市場が道具以上のものになり、私たち自身や

私たちの社会的関係を理解するための方法になっていく」という傾向について常に意識す

べき。「誰がいい教育を受けることができて誰ができないのか。誰がいい医療を受けるこ

とができて誰ができないのか」といったことを市場が決めるようになってしまう。これは、

正義、共通善、善き社会の性格についての問題。市場自身は、このような問題に対する答

えを私たちに与えてくれない。経済学は、「何が善き社会を作るのか。何が正義に適った

社会を作るのか」という問題には答えてくれない。これらは政治的・道徳的な問題だから。

 市場の道徳的限界について、サンデル教授はインタビューに答える。

 「ここ数十年では、市場は行き過ぎる傾向がある。市場は、非市場的な価値によって適

切に治められる生活の領域にも入り始めている。たとえば、教育、健康[医療]、公民権、

安全保障などです。こういった分野すべてにおいて、‘市場における価値が、私たちが

気に掛けている本来の善を押し出してしまうという危険を犯すかどうか’という大きな問

題がある」【本文引用】

 重要なのは、市場を道具と見なして使うこと。

 移民を受け容れる功罪

 自らの国アメリカを移民の国として受けとめてこられたサンデル氏。しかし、サンデル

氏は、自国民ほど移民に寛容だったわけではない。それでも、現在は、一定の歴史や一定

の言語こそが自国を束ねると考えてきた国々でも、移民を受け容れざるを得ない、または、

移民が流入してくる現実を認めざるを得ない状況にある。移民を受け容れることによって

価値観を柔軟化させて対応しよう。そうなるべき世である、とサンデル氏も思われている

ようである。

 すべてのコミュニティーやアイデンティティーを重視した上で、普遍的な一体感(世界

全体に対して)から、救済などの正義が、それでも必要と言える。

 議論は、持論の正しさや優位性を明らかにするに留まらないで、思考を深化させるべき

 対話型講義というのは、自由な思考をを尊重して、それを育みながら、その思考を深化

させ発展させることが眼目。世間の多くの討論においては、お互いの意見を述べるだけで、

自分の意見の正しさやその優位性を明らかにすることのみを目指す場合が多い。

 まさに、哲学は、思考そのものを愉しむのが醍醐味だと思いました。

 だから、思考が変化していってもよいのです。

 世の中では、しばしば宗教的・政治的ないし商業的な対話の場において、人々が知らず

知らずのうちに、その場が目的とする方向に人々を誘導する技術が行使されることがある。

(これを、最近では、ファシリテーションと呼ぶ)

 ファシリテーションが悪いかどうかは一概には言えないが、サンデル教授の講義は、フ

ァシリテーションではない。自由な思考をはぐくむもの。

 受講生から発言を出させるテクニック

 サンデル教授は、対話型講義のとき、受講生から発言を出させるテクニックを駆使され

る。

 それは、一つは、言い換え。

 発言者が正確に自己の考えを整理できていないとき、或いは、どの哲学者の立場に自分

が近いのかを把握していないときなどに、発言者の論旨は崩さずにその発言の輪郭をはっ

きりさせる。

 もう一つは、発言者の意見を全否定は決してされないこと。

 この他にも、本文を読んでいただくと、サンデル教授の講義でのテクニックを知ること

ができるでしょう。

 日本での対話型講義の歴史と現状

 日本で対話型講義が行われてこなかった原因。明治維新以来、近代日本の教育は欧米の

様々な知識・技術を日本が導入することからスタートし、その実現に時間がかかり、その

態勢を長く維持してきたこと。

 もう一つの側面として、「先生の言われることに従順に従おう」という傾向があったこ

とです。

 サンデル教授の講義の準備

 サンデル教授の講義は、実は、周到な準備に支えられている。

 大人数での講義にはいる前に、学生たちには、セクションごとにティーチング・フェロ

ーという指導者がついて、そのテーマに関しての予備知識の習得や、前段階での議論が行

われている。(1000人以上の講義で、50以上のセクションが存在する。セクション

の受講生は18人程度)

 ハーバード大学では、サンデル教授の授業に対しての成績をつけられるとき、ティーチ

ング・フェローという指導者が評価する。略してTF。その評価段階も細かく設定されて

いて、結論に至るまでの論理的な一貫性・統一性が明確な小論文が評価される。勿論、サ

ンデル教授がコミュニタリアンだからといって、評価される側の学生がコミュニタリアン

の考え方である必要はない。

 ハーバード大学の学生は、すべてサンデル教授の講義を受けなければならない、という

ことではない。各々、普段は別の分野の履修を受けているのだが、サンデル教授の講義は

望めば、カリキュラムのなかでの調整で受けることができる。

 一回の授業について、通常五、六の論文か本を原本で読み、週三百ページほどの必読文

献を課せられる。だから、「白熱教室」では、あんなに突っ込んだ深い議論ができるのだ。

 日本の大学と違って、その履修科目自体の受講時間は長い。その代わり、日本の大学と

比べてという意味だが多科目を履修する義務はないようである。

 FD(ファカルティ・ディベロップメント)を批判する

 FD(ファカルティ・ディベロップメント)を一部批判する内容も出てくる。

 大学の高校化。自ら学ぼうとしない学生に学習意欲を与える。さらに、レジュメやパワ

ーポイントをあらかじめ作っておいて、授業をわかりやすくする、ということだが、自発

的に学習してこそ大学生だろう、という意味の内容が語られます。たとえば、社会に出て

即戦力になる実技、たとえばわかりやすい例で言えば、大学時代に簿記を教えることなど

ですが、大学は考える姿勢を身につけることこそが大事なのではないか、だから、実務、

或いは実務的な履修科目よりも、一般教養を教えて、哲学にしろ哲学的に普段の生活や社

会現象を見る目を養うことこそ大事なのではないか、と語られます。(もちろんサンデル

教授の考えです)

 私もこの考えには賛成で、大学にはいって、わざわざ工業高校のような実務的な勉学だ

けをすることはないと思います。なぜなら、必要に迫られてそういう知識は身につける場

や時間があるでしょうし。勉強の仕方を習うところが大学で、社会に出てからも、学生の

現役時代でも、一分野に関して深い知識を得たいと思えば、自律的に勉強はできるからで

す。

「自分で考える」「他人と議論する」といった基本的訓練を積むのが大学だと言えます。

 たとえば、人生の矛盾や不条理に関して、時間をかけて考えられる時期は大学生活の時

期くらいしかありません。

 対話型授業は、日本でも行われていた

 著者の小林正弥氏が実際に見られた事実。対話型授業は、日本でも行われていた。小学

校で。しかも、このようなマイケル・サンデル教授の講義に注目が集まるずっと以前から。

 前述したことですが、中学・高校と学年が進むにつれて、教える内容の多さから自動的

に減っていっているのです。

 サンデル教授の扱う「正義(法を超えた正義)」 感想

 サンデル教授の講義「正義」は、現代において影響力を持つ功利主義、リバタリアニズ

ムから始まり、リベラリズム(カント、ロールズ)の思想を経て、最終的にはアリストテ

レスの古典的な目的論にまで遡っていきます。正義論としてみると、近代的・現代的正義

論から始まって、もともとの古典的正義論に戻る構造と言えるでしょう。【本文、引用】

 ひとつ、「ああ、そうだったのか」と分かったのは、ロールズの正義論において「格差

は認めるが、その格差は、もっとも社会的立場の弱い人にとっても便益を有する格差でな

くてはならない」という議論があったのですが、この考えには、「無知のベール」に包ま

れた状態で考えるということに対して、その想像をする人が必ずしも自分の便益をしっか

りと認識できているとは限らない、という意味でサンデル氏はロールズの主張を崩された

のですが、そのことよりも、ロールズが「もっとも恵まれない人にとっての便益を確保す

べきために、格差を抑える必要がある」と言ったのを、敷衍して考えて、それでは、自立

して生活できる人、その最低限を確保している人が社会の底辺にくれば事足りる、と思っ

ていたのですが、格差は開くのです。そのことに私、気づいていませんでした。この部分

は経済学の分野とも重なってくると思うのですが、市場に流通している富の全体量は同じ

なのだから、多数の高額所得者が居る社会というのは、貧困にあえぐ層も出てくると考え

られます。流通貨幣が増える。または増やす、という方法もあるでしょうが、まったく元

手のかからない新しい産業が勃興してこないと、結局は流通貨幣も増やせない。そういう

ことを考えましたが、浅薄な基礎知識ですので、推論としかなりませんでしたが、重要な

ことに思えます。そういう意味では、賭場のような器が社会だと考えることもできるわけ

ですから、あまりにも富む人が多数出ると、貧困に喘ぐ人も必ず出てくるということにな

り、その為には、格差を抑えなくてはならない。その方法として、社会の底辺に居る人の

生活を社会保障でまかなうか、或いは、強烈にお金持ちの人をつくらなくする必要がある

とも言えます。だからこそ、市場主義だけでは、すべての問題は解決することは出来ない

のでしょう。

 最後に、サンデル教授の考え方は、「法を超えた正義」を追究するものであることであ

ると記しておきます。

 リバタリアニズムやリベラリズムでは、法律さえ護っていれば、それ以上の道徳的善を

行う必要はない、という考え方になりがちですが、「善ありし正義」では、精神的・倫理

的な正義も追究するのです。

 リーマンショック後だから、こういうサンデル教授の講義に関心が集まるのでしょう。

 感想としては、対話型講義はどんどんやるべきだ、と思いました。

 そして、市場主義では誰かが泣きを見る。市場主義を行うとしても、倫理的になすべき

行動、抑えるべき行動をわきまえておくべきであるし、そういう「善ありし正義」を心が

けよう、と、思うことが大事だと思いました。少なくとも、(社会のなかで、社会のシス

テムに弾かれた)犠牲者が出ていないか、そういう人のことを思いやれるか、が大事であ

る。そして、それが自然に出来る「哲学」を、万人が心のなかに持つべきである、と感じ

ました。

 ・マイケル・サンデルシリーズ→   『サンデルの政治哲学(<正義>とは何か)』の書評

                   『それをお金で買いますか(市場主義の限界)』


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