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『サンデルの政治哲学(〈正義〉とは何か)』読了(追記あり)

政治哲学者マイケル・サンデル氏の思想を、小林正弥氏が紹介した、小林正弥氏著の、『サンデルの政治哲学(〈正義〉とは何か)』を読みました。


サンデルの政治哲学 〈正義〉とは何か (平凡社新書 553)

サンデルの政治哲学 〈正義〉とは何か (平凡社新書 553)

  • 作者: 小林 正弥
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2013/07/22
  • メディア: Kindle版

感想と本編紹介は、追記をお待ちください。

【本編が難解なため、下記書評では、本編の論旨を正確に紹介できていない部分がある可能性がありますので、正確な知識である保証はないものとしてお読みください。ご興味を持たれた方は、是非、本をご購入の上、本編をお読みください。】

追記・感想

政治社会学とか、政治経済学なら聞いたことがあったのですが、政治哲学というのもあ

ると初めて知りました。

実は、この本、読了といっても読了しても理解が追いついていない状態です。

付箋をつけた所を追いながら、解る範囲で紹介してみたいと思います。

サンデルの場合は、公共哲学でコミュニタリアニズムの考え方です。

このコミュニタリアニズムとは、共同体主義と訳され、共同体(コミュニティ)の価値

を重んじる思想です。

サンデルが「白熱教室」などで討論のテーマにするのは、「正義とは何か」ということ。

極限の場合を仮定して、この場合、どういう行動をとることが正義に適うのか、を問う

ていく授業の進め方であり、普段のご本人の哲学の思考の方法でもあります。

それで、「善」と「正義」を別のものと規定して、「正義」の方を重要視して論説展開

されるのです。

しかしながら、リベラリズムでは、「正義」と「善」を完全に切り離して考えられてい

たが、サンデルの考え方は、目的論的正義=善ありし正義なので、より前向きな正義であ

ると言えます。すなわち、どうするべきか、どう生きるべきか、に重心を置いた正義なの

です。

「善」とは、倫理的に良いこと。儒教で云えば「義」に当たる。

一方「正義」とは、「法」「権利」「義務」に基づいた各人への正しい分配が為されてい

るか、を問うもの。と解釈します。

でも、インターネット辞書とか、この本を読んでも、私には、正確に「善」と「正義」

がどう違うのかが分かり切りませんでした。

マイケル・サンデルは、ジョン・ロールズを批判して頭角を顕してきた人です。

ロールズは、リベラリズムの政治哲学者。ロールズは、善なき正義を主張していました

が、サンデルは「善ありし正義」を主張します。倫理的・精神的正義なのです。

サンデルは、リベラリズムにもリバタリアニズムにも批判を加えたので、その考え方は

コミュニタリアニズムと呼ばれました。

リベラリズムとは「自由主義」。リバタリアニズムとは、それの一歩進んだ、他者の権

利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべき、という考え方です。(簡単に要

約しすぎですが……)

ロールズは、二つの正義の原理を主張する。(正義の二原理)「平等な基本的自由の原

理」。そして二つめの一つが、「格差原理」。「完全な結果の平等が必要なのではなく、格

差は認める。だが、その格差は、最も恵まれない人にとって便益があるような格差でなけ

ればならない。その場合にのみ、経済的・社会的な不平等は許容される」。そして第二原

理の二つめが「公正な機会均等原理」。この第二原理の二つについて、それが成り立つに

は「原初状態での契約」という仮定的思考が成り立つ。と、ロールズは言っている。

ロールズが主張するところの、「契約の原初状態」の平等性は成りたたないのではない

か、とサンデルは批判する。

誰もが、自分の社会的立場を知っていない(自分が何者かを知らない)「無知のベール」

に覆われた状態を仮定して、あらゆる場合に自分がどういう行動をとるかを考察していく。

自分の経済的・社会的・健康状態も含む状況を知らないとき(自分と他者の能力や立場に

関する知識を全くもっていない状態)では、自分は、ひょっとしたら世界で一番恵まれて

いない状態かも知れないと仮定して考えるから、この、もっとも恵まれない人にとっても

便益のある正義が要求される。このことによって、正義の公正さが保たれるとロールズは

考えた。それが「原初状態での契約」である。この万人が「無知のベール」に覆われてい

る状態での「原初状態での契約」だが、サンデルは、この考え方が成り立たないのではな

いか、とロールズを批判した。そもそも契約のときに正常な判断を下せない人も居るわけ

である。恐らく、制限行為能力者などのことを言っているのだと思う。万人が無知のベー

ルに包まれていても、当然となるべき判断をできない人が存在する。だから、「原初状態

での契約」自体、あり得ないのだと。

私が思うには、サンデルは、「原初状態での契約」を成り立たせなくすることでロール

ズの正義の第二原理二つを成り立たせなくしたいがために、特別な例を引き合いに出して

理論を破綻させたのだと推測します。後に来る自分の理論を展開させるために、ロールズ

の理論を破綻させる必要があったのでしょう。(後に来る自説について、今、私ピンと来

てないのですが……)

サンデルの授業は、対話型講義。著者の小林さんも、このスタイルをご自身の講義で大

規模に行ってみたところ、「学生たちは生き生きと考えるようになり、お互いに会話で議

論したり、文献を積極的に質問するようになった」と仰有る。「サンデルのような対話型

講義は、一般教養の復興につながっていくと期待される」とも仰有っている。

功利主義とは、個人の感じる喜びないし快楽を幸福と考える。社会を構成する一人ひと

りの幸福を合計すれば、その社会全体の幸福を考えることになり、これを最大化すること

が望ましいとする。功利主義は、道徳性や正しさを結果から判断するので、帰結主義ある

いは結果主義である。端的に述べると、GNPの成長が社会の幸福の増大となる。

この考え方からいくと、「救命ボートの事件」(実際に有った事件。四人が乗ったボー

トが難破してしまい、乗員は食糧難になり飢餓状態となったとき、一番衰弱していた少年

を殺してその肉を他の乗員で分け合って食した)も、正しいことになる。全体の幸福度を

上げる行動であったからだ。

一方、人間には当然、生きる権利があり、そして「他人を殺してはいけない」という義

務がある、という人間の権利や義務から考える見方、を「自由正義論」といい、対立する

考え方である。

ベンサムのような功利主義では、人々の幸福は計測でき、合計できると考えるため、幸

福には共通の基準が成り立つと考える。ベンサムの効用という概念は、このような共通通

貨を提供するというもの。「ある政策や行動がどれだけの幸福をもたらし、同時にどれだ

けのコストがかかるか」という考え方。

J・S・ミルは、功利主義の喜びの基準に、質の高い喜び[快楽]と、低い喜びの区別

を試みた。大部分の人々が選ぶものの方が望ましい喜びである、とした。サンデルは、この

考え方を検証するために、シェイクスピアの作品とアニメの「シンプソンズ」などの娯楽

番組二つを学生たちに見せ、質問した。「この三つのなかで、どれが一番面白かったか」

と「どれが最も質が高いか」と。「面白い」との回答の多くは「シンプソンズ」であり、

「質の高さ」ではシェイクスピアであった。このことによって、ミルの検証法は成功しな

いという答えを導き出した。サンデルは、ミルの議論は、功利主義の枠を超えているので

はなかろうか。と示唆している。そもそも功利主義は、一つの基準によって、望ましさを

判断するものだったのだから。

正義についての三つの考え方の内の一つ、「自由型正義論」は、哲学的には「義務論」

と関連が深い。功利主義は、帰結主義、結果主義である。

「義務論」は、結果にかかわらず「これをしなくてはならないからする。すべきだから

する」という考え方。

その義務論の系列に、権利を基礎とする理論[権利基底的理論]ないし権利志向的リベ

ラリズムがある。リバタリアニズムは、その中の一つである。

リバタリアニズムの代表者、ロバート・ノージックは、はじめに持っている初期財産が

正義にかなっていれば、その後で市場における交換か贈与に基づいて財産の移転が正しく

行われている限り、現在保有する財産も正義にかなっている、と考える。これを支える重

要な基礎的論理が、「自己所有」の考え方。人間は肉体を所有していると言える。これは、

自己を所有していると言い換えることができる。だから、自分の身体をつかって労働する

と、その労働の成果も自己が所有することになる。労働の結果、生まれた財産も自己が所

有することになる。肉体から財産までを含めて、自己の所有物と考える。それが「自己所

有」の考え方。

課税を不正とするリバタリアニズム。それへの反論に、バスケットボール選手のマイケ

ル・ジョーダンや、マイクロソフト会長のビル・ゲイツの話をサンデルは出し、「ジョー

ダンは運が良い」「彼が才能を持っているのも偶然だし、その才能を活かせたのも時代背

景による。だから彼の収入をすべて彼個人のものにする権利があるとは言い切れない」と

いう反論を提起する。「自己所有(権)」とは、絶対のものなのだろうか。

リバタリアニズムの考え方を徹底していくと、売春という行為を道徳的な観点から法律

で規制するのはおかしい、という事になる。医師による自殺幇助も、あって当然というこ

とになる。

リバタリアニズムの考え方は、徹底すると極端な結果に辿りつく可能性を孕んでいる。

「だから、リバタリアニズムの論理は支持できないのではないか」と、サンデルは暗に問

いかけている。

感想として思うのだが、極論、極端な究極状態を考えて、それを例に主義を批判してい

く思考である、と思う。だが、学問に於いて、その論理が破られる場合は、その綻びを極

端なシチュエーションを設定してでも打ち崩さなければならないのかも知れない。そうで

ないと既存の主義や論理は、新しい論理にとって代わられることがないのかも知れない。

これは、特に科学の論理の場合は顕著であるだろう。

「至上主義」の問題点についての議論は、「徴兵制」と「志願兵制」と「条件付き徴兵

制」の議論。さらに、人工授精の際の「代理母」の親権問題についての議論がなされてい

る。(ここでは紹介しない。詳細は本編を)

カントは、「人間は、自分の理性で考え、自分で規則をつくって、それに従って行動す

ることが出来るようになった近代人の様子」を「自律」と呼んだ。古代では、「神が、こ

のような啓示を下したから」とか「支配者ないし、権力者が、このように決めたから」と

いうように他者ないし外的権威の意志や命令によって生きるべきである、とされていた。

さらに、自分の欲望や衝動や利益などにしたがって行動することも理性的な意志による行

動とは言えない。

カントは、人間を手段として使う功利主義に反対。行動を道徳的に価値のあるものとす

るのは、「帰結」ではなく「動機」であり、「道徳律」の義務のためになされた行為だけ

が道徳的に正しい、とした。これが、義務論の義務論たる所以である。

「条件付きで、あるいは、このような結果を得たいから、こうしなさい」というのが仮言

命法。「絶対的で無条件の義務として必ずこうしなさい」という考え方が「定言命法」。

行為の格率を普遍化することによって、定言命法であるかどうか査定する。「目的として

の人間性の定式」は、「自己の人格においても、あらゆる他者の人格においても、人間性

を単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱うように行為せよ」である。カン

トについては、この書評ではこれ以上詳述しない。サンデルは、カントの定言命法の「動

機」について、「正直であること」をカントが絶対的道徳価値である、としていることに

ついて、「嘘」と「誤解を招くような言い方で真実を述べる」というのは、どちらもいけ

ないとは言い切れない、として、例を出して一石を投じている。

と、ここまで、殆ど中盤は本編の引用を多発して本編を紹介してきた訳ですが、とても

分量が膨大で紹介しきることができません。

ロールズ以降、科学の陰に隠れてパッとしなかった政治哲学が復興してきている訳です

が、サンデルは、そのロールズにも批判を加えて、新しい議論を起こしているようです。

先人の論理に、綻びを見いだし、批判を加えていく。さらに、独自の論理をも紹介して

いきます。

こういう哲学的問いは、普段の生活のなかでは考え続けるのは実務との兼ね合いでロス

を起こすものですが、誰かが考えていって、それを論理として社会に早く提示していかね

ばならない。そういう性質の学問だと思います。

「白熱教室」という講義のスタイルは、どうやら受講している者にもオンタイムで考え、

教授の思索に参加していける形のようなので、意義があると思います。

こういう議論が、市井の人々の間にも、一週間に一時間くらい、ラフな肩の凝らない形

で自然に行われれば、人生が、もっと有意義になるでしょうね。

・マイケル・サンデルシリーズ→ 『サンデル教授の対話術』の書評

『それをお金で買いますか(市場主義の限界)』の書評

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