上野千鶴子『女ぎらい(ニッポンのミソジニー)』読了(追記あり)

 上野千鶴子さんの、『女ぎらい(ニッポンのミソジニー)』を読みました。

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

女ぎらい――ニッポンのミソジニー

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2010/10/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 お約束どおり、徹底的な批判を展開する予定です。

 また、批判だけでなく、「なるほど、納得できた」と思う点についても、書きます。

 例によって、感想は追記をお待ちください。

   追記・感想

 まず、ミソジニーという語句について、その意味だが、正確には、そして詳細には辞書

などに譲るとして、全編を読んで私が解した意味としては、次のようになった。

 ミソジニー=女ぎらい、である。

 女は社会的に弱い立場であるので自分は女でなくて良かった、と思う、女ぎらいの心理。

さらに、女には月経があって、かつ、なまめかしい面があり、さらに、腕力でも平均値と

して男にかなわない(弱い)生き物だ、だから嫌いである、とする考え方。自分が女の場

合も、この前述、後述どちらの意味も含めて、女であることが劣位であると思う考え方の

ことを指している。

 男社会での人間関係 ホモソーシャル

 男には、ホモソーシャルがある。男同士の集合体のなかでの人間関係やお互いを尊敬や

尊重する関係。

 女には、男のホモソーシャルに匹敵する、女同士の社会的な集合体(少なくとも集合意

識)はないのだ、とする。

 世の中で、頭角を顕したり尊敬を受けたりする社会は、ホモソーシャルのなかにしかな

く、たとえば女学校でいくら後輩や同級生に一目置かれても、その立場は卒業とともにな

くなるのだから、という考え方である。

 まず、最初に明記しておかなければならないのは、この本の全編が上野千鶴子女史の見

解であるわけではない点だ。

 先達の社会学者や作家などの意見・見解を披見するに留めている内容もある。

 従って、厳密には、上野女史が仰有る自説だけを批判しなければ筋が通らないが、膨大

な全編をいちいち検証しながら批判を展開するのは無理に近いので、おおまかな捉え方と

して、「この本で展開されている考え方」を批判することにする。

 女の生き甲斐としては、二つのジャンルがある。

 自分が出来る女(たとえばビジネスパーソンなど)になって、社会から直接、尊敬を受

ける喜びのために生きる生き方。

 もう一つは、社会的に成功している男の妻となって、ホモソーシャルな場での男の地位

に、彼の女である、と紹介されて間接的に存在意義を認めてもらう生き方だ。

 しかも、そのどちらもの欲求を持ちながら、女性は生活している。

 管理人のこの本への批判点は、ただ一点のみだ。

 些か大仰に前振りをした「批判するぞ」という意味の文章を私は書いたが、殆ど、批判

したいところは、ただ一点か、その一点から派生することのみである。

 セクシャリティーとしての男女は、わかりやすく言えば性交(セックス)のときの男女

の関係は、男=主体で、女=客体でしかない。とする、この考え方。女のオルガズムはシ

チュエーションなどにも大いに影響されるし、性器結合での往復運動だけでは女はオルガ

ズムを得ることはなく、たいていの女は、家庭でのセックスでオルガズムにまで往ったこ

とがなく、それを男のほうは、「こいつは、俺の、これが良くて離れられないんです」な

どといった風にホモソーシャルな場で自慢する。という、この見解について、立腹し、ま

た、意見の相違があったのである。

 下世話に言えば、上野氏自身が男との床で男と同時にオルガズムを得たことがないのか、

或いは、オルガズムを得ることを強硬に拒んでいるのではないか、と思ったからだ。

 私の内心としては、こうだ。

「アンタ、男に往かされたことないのか」という感想が正直なところである。

 私は、前戯なしでも、亡き妻を含めて何度でも往かせた。【加筆】(女が性感帯が

一カ所でなく分散している、というのも迷信である。乳房だけをいくら弄くっても、往け

るわけがないし、女も殆ど陰核とヴァギナだけで往くのである。経験から実証済み

である。往けるように男が開発してやれるかどうかだけである)

 男に心を開くことが嫌なのか、と思う。

 そこから敷延して、性交では、同時にオルガズムに至ることができるということになる

と、セクシャリティーとしての男女は、どちらもが主体であり、どちらもが客体である、

という私の持論になる。

 ここで、完全に意見が食い違う。

 後半に出てくるが、女同士の集合体で大人で社会全体で、男のホモソーシャルに匹敵す

るような価値の査定の仕方は、本編にも出てくるとおり、確かにない。

 これは、意見がまったく一致する。

 地球上に女しか存在しなくなった場合にだけ、上述の世界は展開できる。

 他の本にも書かれていたことだが、女は、結婚・出産をすることで、一時的にせよ働け

ない時期ができて、元の職場に復帰することが難しくなり、パートなどの社会的地位(語

弊が有れば、社会的羨望を受けるポジション)が脱落した仕事をすることになる。

 よしんば、ずっと独身でキャリアを積んで会社での地位が上がっても、ホモソーシャル

な集合体のなかでは、男の側からは率直に認めてもらえない、という現象が起こる。建前

上、認められていても、男社会の本音としては、男は内心では、そんな女の有能さを認め

ていないのである。(むしろ、可愛げがない、として怨嗟の対象となる)

 よって、ホモソーシャルな場に食い込むためには、社会的ステータスのある男の妻にな

る道をとるほうが確実、ということになる。

 ここで、社会的ステータス云々を認めてほしいという願望よりも、女の性愛、或いは恋

愛、子供への愛しさといったものの喜びのほうだけで満足できる女も居るのではないか、

と、私としては思うのである。

 主婦業が、無賃金労働と言ってのけるが、男の稼いだ生活費は、女自身が生活する資金

としても使われているのである。その上に、夫婦共用の物だけでなく、化粧品やブランド

物とまではいかなくてもバッグなども旦那の給料から買ってもらうのである。これは、無

賃金労働とは言わない。

 ホモソーシャルな場での帰属物という立場に置かれたとしても、充分な快楽を夫から得

られていれば、そんなに目くじらは立てない筈だと思うのだが。

 一方、女のミソジニーに匹敵する、男の、「男ぎらい」、つまり、「男になんて生まれて

くるのではなかった」という感情も、或いは、「男に生まれなくてよかった」という感情

も、そういうミソジニーもあるのではないか、と後半では語られていた。

 人間(男)は、意志のとおりに全能感に満ちて自身の体を動かしたい。つまり、意志>

体という関係性がある。それが思うようにならない。その思うようにならない体の、コン

トロールしにくい欲求というファクターに性欲があるが、男は、それを自分よりも劣ると

思っている女を相手にすることでしか解消できない。ゆえに、自身の体に対する自己嫌悪

を持つのである、という論旨である。(この論旨の一番目の発信者は上野女史ではないが、

上野氏も同感・首肯・類推はされているようである)

 渡辺淳一は、作家だからモテる

 話が前半の著述部分に戻るが、作家の渡辺淳一氏がモテるのは、作家であるというステ

ータスをぶらさげているからである、と発言されている。

 この点は、首肯するが、この辺を読みかけてからだんだん腹が立ってきたのだ。

 社会的ステータスを持っているか、高収入であるか、或いはルックスがよいか、という、

この点で男は女にモテるだけで、それは、男の本来のアイデンティティーではない、とす

るのである。

 そして、その極めつけに、性技が達者であるか、という要素を議題に出してきて、「女

は、そんな簡単に往くものではないから、そんなことで自惚れている男は、女が見えてい

ない」と文脈はつづくのである。

 別に、その男の行動から、心の優しさを感じたり、世の中に認められているかは別にし

てもオリジナルな作品(絵画や音楽など)を創作していたりする個別性に惚れることもあ

ると思うのだが、それが大事な要素だと思うのだが。

 この、「(男の)優しさ」についても、床をともにしたいときは男は誰にでも優しくな

ったりする、と切り捨てる。

 実際、それはある。それは認める。

 しかし、すべての場合の男の優しさが、それからだけ出ているわけではないだろう。

 だが、ここまで批判してきたが、全編に対して批判しているわけではない。それは、読

者も読んでいて気づくだろう。

 ミソジニー(女ぎらい)という概念が、深層意識に作用していて、父と息子、父と娘、

母と息子、母と娘、という家庭の人間関係に、遠回しに心理的に作用していることは確か

なようである。

 ミソジニーを持つ娘は、母のようにはなりたくない

 たとえば、ミソジニーを持つ娘は、母のようにはなりたくない、と思う。が、しかし、

自分が女であるゆえ、時が経つにつれて母のようになっていくことを受け容れなくてはな

らなくなる。社会的成功を追い求めても、ホモソーシャルな世界では完全な到達はあり得

ない。自らが女であるからだ。そこで、母に対する嫌悪が産まれ、自分の肉体の性別に対

する嫌悪が産まれてくる。東電OL殺人事件の被害者についても、ミソジニーの心理から、

その生活に対する謎解きが出来る。

 後は、枝葉末節を一部紹介したい。

「プライバシー」の語源が「剥奪された」からであり、公的権利を剥奪された領域、転じ

て公権力の介入を拒否する領域、私領域であり、それが家族ということになる。公的権力

の介入を受けないのだから、虐待やDVが起こっても、第三者の介入や保護がない恐怖と

服従の場になった、という。プライバシーは誰を守るのか? 強者を。ということになる。

【一部本文引用】

 まったく、その通りだと思う。

 他の本で今読んでいる内容を、この上述のプライバシーという概念に対立させてみる。

 日本の古代は、「家」という制度が作られるまでは、集落の構成員が財産を共有し、集

落の男女が自由恋愛をして、生まれた子供をみんなの子供として育てる形がとられた。【『一

冊でつかむ日本史』武光誠、より引用】一夫一婦制ではないのだ。自分の女を自分だけの

女としたいという自然な欲求から、村を離れて「家」という形をとって住む人たちが出て

きたのである。こういう「家」がなく「集落」単位で生活していたときには、プライバシ

ーがあるゆえの強者の暴走というのはなかったと考えられる。

 後半の『身体化された生活習慣』の項では、男女の性的な関係や夫婦関係は、支配する

ものとされるもの、という図式があるから、それが支配されるほうにとっても恋愛感情を

隆起させる要因にもなっているから、熟年夫婦では、男=強者、女=弱者という関係では

なくなってしまうから恋愛熱が冷めるのである、と論説展開されている。すべての場合で

はないが、とは著者も書いていると思うが、たしかに、これは当てはまることが多いと思

える。

 同じくこの項で、皇太子が雅子さん(当時の尊称)に、求婚したときの科白を引き合い

に出され、「男が女を守る、と言うときには、支配する、という意味が含まれている」と

仰有る。実際の本編では、そんなやわな書き方ではなく、「「守る」とは囲いに閉じこめ

て一生支配する、という意味だ」【本文引用】と書かれている。

 これは、この通りであるし、むしろ、この通りでよいのである。とは私の見解である。

 私が部分的には反フェミニストなのだからからかも知れない。

 ここで、本編とは関係なく少し脱線するが、皇太子のあの言葉は私は今聞くと、非常に

滑稽に感じてしまうのだが、私だけだろうか。何から、『お守り』するのだろうか。強姦

魔から守るといっても、法律が底辺にあるし、そこでブロックは出来ている。生活破綻を

経済的にきたして食べられなくなることがないようにする、という意味が一般社会では多

い意味なのだが、皇室に経済的生活破綻の可能性などないし。

 脱線ついでに書くが、インターネットで少し見た情報だから真偽はわからないが、皇室

では、お召し物を着替えるときとか、お風呂に入って体を洗うのも、すべて、お付きの人、

数人に全行程してもらうことがあるらしい。もし、こういうことが事実だとすると、雅子

妃が精神的にまいるのも解らないではないが。(真偽のほどのはっきりしないことなので、

読者は鵜呑みにしないで頂きたい)

 女を「女にする」のは男。「女になった」ことを証明するのも男。

 『ミソジニーの理論装置』の項では、「男は女と対関係のなかで「男になる」のだ、と

思っていた。まちがいだった。男は男たちの集団に同一化することをつうじて「男になる」。

男を「男にする」のは、他の男たちであり、男が「男になった」ことを承認するのも、他

の男たちである。【本文引用】と語る。女は、男が「男になる」ための手段、または、「男

になった」証明としての報酬である、と。

 ここまでは首肯するのだが、ここから、この書評の前半で採りあげた論旨になっていく。

 それには首肯できない。

 『男の自己嫌悪』の項では、規格外の者たちの行動パターンについて述べられている。

規格外というのは、ここでは、ジェンダーの意味での、「生理学的には男なのに、社会学

的に、否、世間の見方として男と見られない人たち、や生理学的には女なのに、世間の見

方としては女として見られない人たち」のことである。

 それが、ミソジニーから来る作戦だったりもする。たとえば、わざとブスに見えるよう

にメイクをしている女性などがそうだ。

 長々と本編を紹介してきたが、ともかく、ミソジニーという概念については分かったし、

その心理が男女どちらにもある、というのも頷ける。

 批判すべき部分については上述したので、もう繰りかえさない。

 以上である。

・関連リンク  粂 和彦のメモログ 

         charisの美学日誌

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