辻原登さんの、『抱擁』を読みました。
感想は、追記をお待ちください。
追記・感想
幼い子が、ときどき何もない空間を凝視している。
そういう場面が現実にもよくあるらしいのですが……。
検事への述懐によって、全編が進められる。「です・ます調」の文体。
読み進む内に、不安が出てくる。何か起こりそうな不安。
読み進む内に、謎が出てくる。一体、どういうことなんだ、と。
だから物語りに引きこまれる。
二二六事件という現実がバックボーンにあって、登場人物の背景になっている。その悲劇的心
情が物語りに深みを与えている。
結局、最後まで読んでも謎は残る。
少女に取り憑いていたのは何だったのか。
また、主人公はそれを退治したのか。それとも取り込んだのか。
恐るべし、辻原さんの描写力。ディテールに富んでいる。
女性の内面の心理が、辻原さんには分かるのだろうか、とまで思った。
カメラアイとして読者を誘導し、早くから具体的な輪郭を明かにしていく書き方もあるが、こ
の物語りの場合、登場人物や中過去・大過去の経緯について、少しずつしか明かされていかない。
そして、最後まで読んでも、残る謎も多い。細部も全体もがファンタジー性を帯びていると思っ
た。
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コメント
『抱擁』辻原登
抱擁 辻原登/新潮社
二・二六事件から間もない、昭和12年の東京。前田侯爵邸の小間使として働くことになった18歳の「わたし」は、5歳の令嬢・緑子の異変に気づく―。歴史の放つ熱と虚構の作り出す謎が濃密に融け合う、至高の物語。
ぼんやりとしたうす靄の中で一滴ポトンと滴を落とし、それがいつまでもいつまでも波紋を広げて静まらない。時間が経つごとにこのお話がもたらす不穏な空気がじわじわと浸食してきて息苦しい。
一体どう解釈したものか。幾通りもの解釈がなされるものだと思うのだけど、これが現実か虚構(妄想)かによっても大きな意味を持って成すのでしょう。
衝撃を持って本を閉じ、表紙の絵と金文字のタイトルを見るとぐっと迫るその意味。
なんとこの作品にふさわしい表紙絵とタイトルなのでしょうか。
ゴシックロマンに溢れ、歴史と虚構が絡み合った濃密な世界にくらくらしてしまいました。
二・二六事件から間もない昭和12年の東京・駒場。前田侯爵邸の小間使いとして奉公する十八の「わたし」。わたしは前田家の下のお嬢さま、5歳の緑子の小間使いとして採用されます。お茶目でいたずら好きでお澄まし屋さんのお人形のように愛らしい緑子。その緑子にすっかり夢中になってしまいます。
けれどもある夜がきっかけで緑子に異変が生じるのです。見えるはずのない何かが見えるらしいのです。それは幽霊なのでしょうか。それとも彼女の妄想なのでしょうか。
折しも戦争にと向かう暗い時代。それを微塵も思わせない「駒場コート」の別空間とも思える世界。「駒塲コート」の外と内が現実か虚構かの分け目とも思えて、この別世界がまさに妄想世界の中にあってここに起きていることは全て夢の中のことなのではないかとさえ錯覚してしまう。
緑子のわたしの前の小間使い、ゆきのの存在が圧倒的です。その存在がいつしか「わたし」の緑子に対する気持ちの変化に大きく関わっていきます。
お会いしたことのない、これからも決して会うことのない(それは希望をしても絶対に叶うはずのない)ゆきのという存在が日増しに強く大きくなっていくのはミセス・バーネットの言うとある現象だからなのか。
ある平穏な時間の流れるお昼前、刺繍をする針の反射する光が蝶のようにひらひら翔び交う描写。わたしのそばでお人形を抱いて椅子に座る緑子の様子。誰かにお人形を見せて笑いかける緑子。全てがゆらゆら実体のない白昼夢の中の出来事のよう。けれども確実に誰かが「いる」と思わせる描写。わたしが決断するまでにもう間もないことが緊迫を持って迫ってきます。
決行の時が近い予感めいた気持ちが昂揚していくさま、それがクーデターを起こした将校たちの思いと重なっていくところは物語がクライマックスに向かってぐっと動き出していきます。この場面からはさらに強い力で物語に引き込まれて読み手も「わたし」の思い、将校たちの思いに絡めとられていくのです。
読んでいてあっと思ったのは、物語のベースがヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』にとても似ているということ。実際辻原さんも『ねじの回転』からインスピレーションを受けて書かれたのだそう。これは是非とも再読したいところ。
ささやきは魔法から解かれる言葉か、さらなる謎に彷徨う言葉か。
「わたし」の静かな語りが儚さと哀しみをたたえます。
読了日:2010年2月6日