福永武彦さんの、『忘却の河』を読みました。
実際には、上記バナーの文庫ではなく、新潮社の全集で読みました。
例によって、感想はしばらくお待ちください。
追記・感想
実は、或るお世話になった方から、「同じ読むなら、こういう作品をお読みなさいよ」と、昔に私、言われていたのでした。それが、『忘却の河』でした。
時代は、戦後すぐか、戦後二十年ほどたった頃といった処のようだ。
主人公(初老の社長)は復員して帰ってから会社を興し、今では秘書つきの社長になっている。
主人公は、戦友が死なず、自分が生き残ったことに後ろめたさを抱いている。
また、妻との間の初めての子を幼い内に病気で失くす、という経験もあり、その二つの事が、主人公のなかで大きなトラウマになっている。
颱風のある日、自社ビルの脇で蹲っていた女を、主人公は善意から彼女のアパートまで送っていく。
ところが、彼女の容態は急を要するほどに悪かったので、そのまま救急車を呼んでやる。(携帯電話など勿論なかった時代に、公衆電話を探しまわって救急車を呼ぶ)
水商売で生計を立てていた女だったが、病気に罹り経済的に困窮している。
主人公は、金銭的に彼女を助けたり、病院に見舞いに行ったりする。
この行動は、実は、二つの罪への罪滅ぼしの意味が内心にあったのだと、読んでいて感じた。
退院後の女が無事にやっていけるだろうか、との心配から、主人公は女のアパートにときどき伺うようになる。
そのアパートの前に掘り割りがあり、ーーー水の澱んだゴミの浮く猥雑な所ーーーその掘り割りを、初めは川と思いこんでいたので、象徴としてタイトルに結びつく訳だが。それに、主人公自身、ローマ神話の忘却の河という存在を記憶していた。
全てを忘れてしまう、という死人がその水を飲む川、それが忘却の河としている。
久しぶりに訪れた彼女の部屋は、既に引き払われていた。
管理人に訊き、彼女の実家へ伺うと、彼女は身ごもって海に身を投げて死んだのだと分かる。
明らかに、自分との関係で出来てしまった子だった、と思える。
せめて、相談してくれたら、認知してやるつもりも生活を全面的に支えてやるつもりもあったのに……。
嗚呼、自分とは、何と罪深いのだろうか。戦友が死んだのに自分は生きて帰ってきた。妻との子は幼い内に失した。そして、今度は、顔も見ない内に子の命を奪ってしまった。
女の故郷の近くの賽の河原へ行って、小石を積んで懺悔して帰ってくる。
忘れてしまいたい。忘れさせてほしい。自分の罪をなかったことに出来れば、どんなに自分も周りも救われるだろうか。そういう思いが、ひしひしと伝わる。
女が、「私には、これくらいしかお返しすることができないで」(本文の文章通りに再現できていないかもですが)と、主人公に身体を供しようとする。女の独り言のような話しの描写が、切々と胸に迫り、琴線を刺激する。
素朴な言葉。繰り返す単純なモノローグの文体。
それだからこそ、著者の内面がダイレクトに伝わるのだろう。
コメント
初めまして。
北海道の片田舎で「こころをめぐる純文学同人誌」の「犬儒のHP~本格派「当事者」雑誌」というのを主宰しているアマチュア編集者兼ライターの犬儒(47)と申します。
僕も福永のファンです。100枚くらいの評論をホームページでも発表しています。
山雨乃兎さんは小説をお書きになるのですね。僕も去年くらいからようやく書き始めました。
よろしかったら編集室(なんでもありの犬儒学派的掲示板)の方に遊びにいらしてください。
インターネット文学チャートでもかなり上のほうにいますんで、僕らの方の雑誌で発表なさってくださると読んでくださる方は多いと思いますよ。
よろしければご検討ください。
最近福永を読む人は希少価値ですね。
突然恐れ入りました。
>犬儒@編集人さん
ご訪問、有り難うございます。
私は、古典(や近代文学)を殆ど読まずに書いてきましたので、お恥ずかしい限りです。
その為に、文体もエンターテイメントの文体から抜けきれず、そういう文体で文学に近い中間小説を書いているという有様です。
同人誌を運営されているのですね。正直、同人誌の主宰者の方からコメントを頂くなど初めてのことですので、びっくりしました。光栄です。
是非、拝読させて頂きます。
山雨乃兎さん、ご返事ありがとうございます。
古典というと『アラビアンナイト』くらいしか読んでないです。他何かあったかなあ。近代文学はディケンズとドストエフスキーくらいだろうか。ただ、ほとんど無関連に去年あたりから小説を書いています。男女の会話が長くて原稿が埋まるのが特徴ですかね。あまり活劇風ではないです。中間小説といえば僕こそ純文学ともなんともつかないジャンルです。由名さんて方がうまくて5種類の疾患を書き分けているのでそちらのほうが注目かと思います。
同人誌ともなんともつかないところですが、プロはいないですね。ほとんど社会人で、インターネットの特徴で海外在留邦人の方などもいます。
『幽閉』というのを企画出版した石山さんて方がたまに掲示板に書き込みしています。
どうも、閉鎖的なアマチュア文学活動というか、純文学ではランキングに登録している方がほとんどいないです。仲間うちで紙の本とか作っていましょうかね。僕は社会に訴えたいことがあるのでインターネットで発表しています。ランキングは二つのチャートで今、3位と15位のようです。
なにか「これはぜひ一般の人に問いたい」というような作品などありましたら、ぜひ寄稿してくださると恐縮です。商業ベースに乗らなくても読者はつくと思いますので。
では、今後ともよろしくお願いします。
はじめまして。『忘却の河』で検索して、こちらに参りました。
失礼ながら、七章まであるこの作品の一章のところだけ、しかも、二つある筋を混同して読んでいるのではと思い、コメント致します。第一章は主人公の過去の回想と現在とが混ざった内容になっています。
身ごもって自殺したのは、若い時の主人公が入院していた病院の看護士です。このブログでは、アパートに住んでいた女性が自殺したかのように読み取れますが、そうではありません。アパートに住んでいた女性は、主人公が出会う前に他の男性との子どもを身ごもっていて、流産します。流産したことは、嵐の日に主人公が救急車を呼び、病院に入院して判明していました。主人公はアパートの管理人から「身を投げて死んだ」という話は聞いていません。本では、主人公は管理人から、彼女からの「いい人が一緒に暮らすというので此処を出て行きます」という手紙を渡されています。
以上が一章の内容です。作品を最後まで読まれたなら、間違いにも気がつくと思います。よかったら、もう一度最後まで読んでみてください。
>はじめましてさん
小説を、完全に粗筋を把握する、ということは必要ないですね。
僕は、最終章まで読んでいますよ。
まあ、粗筋の説明が間違っていたとしたら、そのことは謝罪しますが、感想は感想です。
粗筋を把握して、それをそのまま伝えるのが感想ではありません。
>はじめましてさん
本の感想というのは、音楽の感想と似通ったものでしょう。
様々な粗筋が積み重なって、最後に、或る読後感を得る。
たとえば、管弦楽を聴いたあとに、第二楽章のトランペットのサードが、どう吹いていたかまで正確に憶えている必要はないのです。
僕が粗筋を紹介しているのも事実ですから、そこは誤りだったとしたら認めますが、読後、粗筋を錯覚させられてしまうのも、著者の技量のうちです。
久しぶりに訪問いたしました。ご回答ありがとうございます。
山雨さまはあらすじよりも印象を大切されていらっしゃるのですね。
失礼致しました。私は『忘却の河』に思い入れがあるあまりに、あらすじの違いに少し厳しくなりました。ご容赦下さい。
>はじめましてさん
僕も、機会があれば再読して、正確なあらすじを知っておきたいと思います。
ご指摘、有り難うございました。
また、お寄りくださいね。
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