古本屋で買ってきたので、読了というほど全部に目を通してはいませんが、読みました。
大分まえに、村上龍さんの『共生虫』の方は読んでいたんです。
実を言うと、この村上龍さんの『共生虫』のストーリー展開の影響を、拙著でも多分に受けています。
『癈人つくりて…』は、特に、『共生虫』の物語り展開がお手本になりました。
小説というとき、物語りとエンターテインメントがありますが、(訂正加筆)文学とエンターテインメント(読み物)がありますが、どちらにしても、或る地点まで話が進むと、今までの内容が収斂されて、カタルシスを誘う、か、そこまでの話は読者に提示しておいて、話がその後バラけていって、それぞれの人がどう思うかに任せる、という作り方の二系統があると思うのです。
さて、『共生虫ドットコム』は、『共生虫』という作品を通して、現代の若者の現状をどう捉えるか、ということについて対談形式で語られています。
筑紫哲也さんとの対談では、村上さん、パラサイトとかひきこもりとか、どちらにしても、自分の場合は親元を離れるときが嬉しくてしょうがなかったと振り返られています。その要因は、親に気兼ねなくセックスが出来る。どうしても親と同居だと、異性を家に呼びにくいという事でした。
作家という仕事も、それで充分な収入を得ているかどうかだけで、生活はひきこもりに近いです。ただ、クリエイティブな創作をしているか、ホビーのような趣味をしているに過ぎないかの違いだけとも言えます。
田口ランディさんとの対談では、ネットの世界では、例えばホームページ(当時はブログがなかったと思われるのですが、ブログにしても)からは、書き込みだけで見知らぬ者同士が仲よくなろうとする事は無理なのだ、と、ご自身の経験から言われていました。
田口さん曰く、ホームページは自身の意見を一方的に発信する場にして、双方向の会話をしたいなら、実際にその人と会わなくては成り立たないという事でした。
注目したのは、村上さんとどなたの対談か忘れましたが、「インターネットの交流というのは、メールにしろ、書き込みでの対話にしろ、普段、実際の会話が問題なくできる人同士がやって初めて、スムーズに行くという事でした。この『共生虫』という作品の主人公にしろ、例えばですが、高校の途中から登校拒否になって家にひここもっていて、それでもネットでだったら出会いがあると思ってメールの交際とかホームページでの会話とかを、普段生活のなかで全く人とコミュニケーションがとれなく(人とどう付きあえば、相手に心地よいか等が分からなく)なっている人は、いきなりネット上だけでコミュニケーションをとろうとすると言葉のやりとりが上手くいかなくなる」という事でした。
僕の考えでは、手紙が、きちんとした物が書けるか、とか、家族や友人と少ないながらも普通に会話できているか、という事が尺度になると思います。全く孤独になって(その人が、コミュニケーションには問題なく敢えて孤独になるのなら話しは別ですが)は、自分の言葉を客観的に確かめる場面がありませんものね。
『共生虫』の主人公は、或る有名女性アナウンサーのファンサイトに関わることによって、悪意ある第三者と対決していく事になります。
これは、ひきこもりの人がネットを始めたことによって、仕方なく外の世界と係わっていかざるを得なくなるという普段の一般の人の常識とは違った展開です。一種の矛盾を、村上さん、作品に孕ませたのだと思います。
共生虫というのは、人体に寄生する虫のことで、その虫が居ることによって、粗暴な人格になってしまってもやむを得ないという言い訳が主人公の中で創られます。
全然まとまっていませんが、この本に関しては、この程度の紹介に留めます。
では、また。
コメント
>yannさん
ナイスを有り難うございます。