結局、誰一人として被災地にまで行けなかった。車での神戸入りはほぼ無理なのだ。
夜の八時すぎに先頭車両がやっと西ノ宮にはいったところだった。社長の権藤と各部
の部長は話しあって、全員に引き返すように伝えた。
物資の支援どころではなかったのだ。
大阪から神戸へ入るルートは完全に麻痺していた。
半日社に居た佐伯だったが善い案は浮かばなかった。
堂門の見舞いに総合病院に寄って、アパートに帰ったのは深夜一時すぎだった。
堂門部長の家族は無事だったと聞いた。
社は物資の支援を民間のNGOに託すことにした。社の金でスーパーなどから買っ
た、毛布や食料や水をNGOに託した。個人的に現地へ救援に行く者も居た。社長の
権藤は神戸への支援、救助の為には各々が休職することも認めた。無期限に。
翌日には神戸への電話が復旧した。
佐伯が一番気になっていたことが明らかになった。丸菱工業の田中さんは亡くなっ
ていた。お互いに相手の社へとときどき赴き、商品開発の智恵を出しあった仲だった。
佐伯より一年年上の四十二歳だった。そして奥さんも子も、同居の父母も全て亡くな
っていた。
山崎工業の方からも訃報が届く。山崎工業と丸菱工業の重役、社員等、どちらも半
数が亡くなった。
佐伯の心に穴があいた。
アイメックス株式会社は、大阪府内に新規納入先を探し、コンドームとタイヤ用の
それぞれの原料はそちらに送られた。
アイメックスの会長、七瀬甚一郎の人脈からつながった話しなのかもしれなかった。
商品開発部は成果を出してないし、企画部がそれだけの大量の納入先の営業をやった
とも考えられなかった。
佐伯の実家は兵庫内陸の中江市だったが、災害時の震度は4で両親は無事だった。
二課の石島よしえは、災害三日目から元気がなくなった。誰が見ても明らかだった。
佐伯が、誰か身内が亡くなったのかと訊いたが、彼女はそういう訳ではない、とだけ
答えた。石島の実家は奈良だった。兵庫に親戚があるとも聞いたことはない。
山崎工業と丸菱工業へ権藤と御手洗と佐伯が社を代表して出向いた。
きちっとした葬儀ではなかった。火葬場で荼毘に付すまえに人が集まって焼香する
というものだった。後に合同葬儀が行われるらしい。大勢が一時期に亡くなったので、
葬儀場や寺の確保ができない。それに、寺も壊れている。
一週間がすぎ、政府の発表では死者が五千人を超えた。
一課の佐伯の部下、柳本はずっとボランティアで神戸にはいっている。同じく一課
の山下と大藪が商品開発に専心している。
佐伯は、部下の相談に応じることだけをやっている。地下の実験室でテストをした
り、Oリングの新規格の製図をCADで起こしたりしているのだが、実質、ただ、な
ぞるように作業をしているだけだ。部下の相談にも相槌を打つぐらいの応答をしてい
る。そのくせ、自分を忙しく見せようとして関連のない資料を集め、机に山積みにし
ている。
空疎な心中を察した御手洗に呼ばれ、当分、名刺を持って挨拶まわりに行けと指示
された。
「私一人でですか」
「そう、君一人で。……新しい納入先もできたし、ともかく、今の君は動いている方
がいい。自分でも判るだろ?」
「はあ」
おれがそんな事なら石島はどうなるのだ、と、佐伯は思った。
石島よしえは完全に廃人になっている。デスクワークをやりかけても一、二分する
と手が止まってしまう。乖離という現象が起きている、と佐伯が思うほどだ。
コメント
>thisisajinさん
ナイスを有り難うございます。(^。^)