三十代、四十代ともなれば、子供がいて、その子を護らなければならないポジションに居るから、苦情でも困りごとでも前面に立って進言することを避けようとする。
つまり、護りに入る。
世の中、三十代四十代に限らず、独身の若者でもみんな護りにはいっている。
お店への苦情とか周囲の騒音問題とかの相談なども、みんな自分が先頭に立とうとはしない。
「和を大切にすべきだから、言うべきではない」という、さも理想論的な理論が語られることが多いが、自分が理不尽な侵襲を受けても、言わないで我慢して、みんなが集まる場では笑顔をつくるのだろうか。そうならば、それは見せかけの「和」である。
必ず、誰か他の人が言ってくれるだろう。だから、その方が、自分が風を受けなくて済むから、と、護りに入る。(なかなか一見、功利的な上手い考え方である)
「この問題は、誰かが苦情を言ってくれるだろうから、そいつに小競り合いをさせておけばよい」と考えるのである。考えた上で、普段なにをやっているかと言えば食べるための生業をして、子供の頭を撫でてポテトチップスを囓って鼻くそをほじくっているのである。生業は、健康なら出来るし、生業をするのは自分と自分の家族のためである。特筆するほどのことではない。一生のうちで、いつでもいいから自己実現をしておかなければ死ぬときに後悔することになる。
そういう護りにはいった人が社会に満ちてくると、劣悪な環境や不満足なお店の対応が、放ったらかしになる。
そうなると、社会は、ブロークンウィンドウズ理論のごとくになる。
すなわち、街の荒くれ者が、商店のガラスを割って、荒廃した風景がそのまま放置される。
街のあちこちのガラスが割られるが、誰も警察に苦情を言いに行こうともしない。
そこいらで、ガラスが割れていると、すさんだ雰囲気になる。それを見ていると、乱雑な状態が当たり前で、それでいいのではないか、私がさらに他のガラスを割っても大して変わらないのではないか、と思う人が、他のガラスを割っていく。
荒廃がすすむ。
これを、ブロークンウィンドウズ理論という。
一方、苦情、社会への提言をしない他の理由としては、そのことの前面に出る代表にならされてしまうと、忙しくなり、他の、自分の普段している仕事なりライフワークに没頭する時間を割かれるから、というのがある。
たしかに、それはあるだろう。
でも、正直なところ、自分は、生業があるから、この程度までが活動の限度なのだ、と周りに説明すれば、受け容れられる話である。
困りごとを見て見ぬふりをするのも一時的には有利かも知れないが、どうしても、自分だけが困る場面が出来てくる未来が来るものである。
見て見ぬふりをする人ばかりの社会では、自分だけがイザ困った状態になったときに、誰も助けてくれない。
自分が侵襲されたときには、言うべきことは言うべきである。
そして、もっと仕事以外でも他人同士が関わり合うべきである。
もっとも、社会的立場がない場合は他人とのかかわりを避ける場合もあるだろう。さらに、創作者の場合は、作品世界にのめり込むために、わざと雑音をセイブするときもあるだろう。
それでも、たとえば、行動範囲を変えることが出来て、自分が厭な気分になる所へは行かないという行動がとれる人はいいが、そうでないなら、同じ厭な気分は、その場所に行けば何度も味わうことになるのである。
それなのに、事なかれ主義で、一切苦情を言わないでいると、いずれ、感情的に爆発してしまうことになる。
もっと、誰もが前面に出て、困ったことがあった場合にはお互いに相談し合うようにならないといけないと思う。
貴方が困っている場合は、他にも同じ問題で困っている人が居るケースが多いからだ。
苦情を言ったり、怒ったりすることが、即、異常なことのように考えてはいけない。
誰もが、少しずつ、スーパーエゴではなくエゴを出し合って、妥協点を決めていくのである。
大きな喧嘩をすれば決裂になるが、小さな不満のぶつけ合いは、むしろすべきである。
それも億劫なら、ロボットに囲まれた生活にしたら、どうだ。
そのロボットのエネルギーは自分一人で創るのか。保守管理も自分一人でするのか。
コメント
>xml_xslさん
ナイスを有り難うございます。(^。^)
相変わらず難しい話ですね。そんな話もいいけど、山雨さんのいろんな話のアップは?顔のアップも楽しみにしております。
>blog.so-net.ne.jp/n~さん
なんちゅうハンドルネームですか。(笑)
最近、僕は、月齢の加減で精神的に不調です。面白い記事は、ちょっと待ってください。
顔は、今は無理よ。だって、丸坊主のままで、お見せできる顔ではないですからね。^^
また、お寄りくださいね。(^。^)