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理知的か、感覚的か。

 たとえば、人に、芸能人や著名人の名前を出して、その話題をしようとすると……。

「ああ、俺、アイツ嫌い」

 だけで話しが終わってしまう人がある。

 そんな場合、僕のほうは、その芸能人のことを好きだと、その後、その話し相手とは、

まったく話しが合わなくなってしまう。(少なくとも、その芸能人の話題では)

 同様に、(女の人に多いケースなのだが)有名人の話題をふると、

何の脈絡もないタイミングで、

「せやけど、私、あの人好きやで」

 と答える人がある。

 まるで、人を審査する絶対的権利は自分にあるようなニュアンスで。

「アンタは、神か?」

 と心のなかで呟いてしまう。

 男の場合、いや、語弊があるなら僕の場合、

その人を好きか嫌いか、は、第一番目に重要な心の領域ではない。

 その人を認められる(その人を容認できる)か、その人に一目おけるか、そうでないか、つまり倫理的に許せないか、だけが僕の場合重要なのである。

 人間的に容認できるけど、嫌いな人もある。

 その場合、「嫌い」という感覚は、倫理的に許せるか、一廉(ひとかど)の功績を認められるか、の要素の、さらに下の要素なので、そんなに僕の心のなかでは重要ではない場合が多い。

 しかも、僕が嫌いなのは、倫理道徳的に間違っている人間が多い。

 顔つきが虫が好かないとか、そういうことは、あまり心を大きく動かさない。それに、「何となく嫌な相手だなぁ」と思った場合は、付き合ってみると、往々にして倫理道徳が出来ていない人が多いので、最初の嫌いと思った感覚は、容認できるかどうか、と最終的には合致している。

 僕の心の容認は、倫理的に、間違ったことは絶対にしない人であるか、か、さらに、少し矛盾するのだが、たとえ少々悪い人でも、一人前の甲斐性があるか、で決まる。

 好き嫌いは、その下の要素である。

 なんだかまとまらないが、また後日。

 私はこのブログで万年筆の魅力を綴ってきましたが、実は長年、その万年筆を相棒に物語を紡いできた小説家でもあります。

 インクが紙に染み込むように、人の心の奥底にある「光と影」をすくい上げたい——。そんな想いで書き上げたのが、私の代表作『閉鎖病棟』です。

 閉ざされた場所で交錯する、剥き出しの人間模様。 作家として「本当に面白い、価値のあるものを届けたい」という一心で、一文字ずつ丁寧に命を吹き込みました。

 万年筆を愛するあなたなら、きっとこの物語の「手触り」を感じていただけるはずです。

 画面を閉じる前に、ぜひ一度、私の本の世界を覗いてみてください。

真夜中のつれづれ記……
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コメント

  1. 山雨 乃兎 より:

    >ビター・スイートさん
    ナイスを有り難うございます。(^。^)

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