今日は、祖母の十七回忌の法事だった。
或る有名人が言っていたことと同感に思うことは、こういうことをブログに書くときは、今からやることを、いつ、します、とは書かないほうがよくて、済んでから、「行ってきました」と書くのが安全だと思う。
法事くらいの行事がないと、親戚が集まることもない。なかなか顔を見られる状況というのはつくれない。
法要の間中、考えていたことは、お坊さんのお経、「いっせい」という語句が頻繁に出てくるな、ということである。
お坊さんのお経は、色んな種類があって、家は真言宗なのだが(亡き人を弔うときは、個人のキリスト教に信奉しているということは抜きにして、先祖からの弔い方にしている。私自身も同じ墓にはいるつもりである)、般若心経や回向文(えこうもん)などは、家庭用として配られているから目にして覚えているが、それ以上のレベルの高い経文については、まったくわからないし、お坊さんがあげているのを聞くだけである。
それが、今日、意識的に聞いていると、「いっせい」という文言が多いのに気づいた。
一切(いっさい)のものは、無に帰す。無常である。などという場合に、一切という言葉を使うから、たぶん、一切ということではないかな、と思いながらネット検索してみた。
果たして、その通りであった。
一切と書いて、「いっせい」と発音する。
お経は、真言密教の理趣経。
理趣経について詳しく解説したサイトは、こちら→ http://www.ichigenkuyou.jp/risyu.htm
法要のあと、弟二人と義妹、実母、叔母、と私とで、回転寿司に行った。
義妹や叔母は、生活の苦労のことを話していたが、ブログでは詳述しない。
一人十皿くらいは食べた。
お店は、総合的にはよかったのだけれど、もう少しワサビが効いていたほうがいい。出てくるネタも、最後に食べた「ぶり」は大きかったが、その他のネタも、もう少し大きいほうがいい。
何皿も食べれば同じだが、ネタが大きいほうが食べた気がする。まあ、あくまでも個人の嗜好だが。
大人数で話していると、家庭での要らないものの処分の話になって、そういう行為を、「断捨離(だんじゃり)」と言うらしい。
初めて聞いた。いくらテレビを観ないといっても、そんな言葉も知らないとは、世間に遅れていたな、と自分を恥じた。
物に対する執着を断つ、という意味があるそうである。それとともに整理整頓された綺麗な環境に身を置くことによって、人付き合いも、良性のオーラを持つ人を呼ぶようになる、ということだろうか。
新しい年を迎える動きが、方々で始まっています。
僕個人としても、その動きが始まりました。
では、また。(混合文体、ご容赦を)
コメント
>xml_xslさん
ナイスを有り難うござます。(^。^)
>ビター・スイートさん
ナイスを有り難うございます。(^。^)
>sakamonoさん
ナイスを有り難うございます。(^。^)