PR

『青の時代1985』読了(追記あり)

最近チャットで知り合った、穴田丘呼(あなた きゅうこ)さんの小説、『青の時代1985』を読みました。


青の時代1985

青の時代1985

  • 出版社/メーカー: 清風堂書店
  • 発売日: 2010/05/25
  • メディア: 単行本

例によって、感想は追記をお待ちください。

追記・感想

掌編小説集。

修飾の多い文体。比喩、直喩による形容も多い。

読みはじめて、「なかなか、しっかりした文章を書くなぁ」と思いながら読み進むと、

今度は、いわゆる「何が、どうなっているのか分からない」記述がつづくので、「わから

ないなぁ」と思ってくる。しかし、それでも最後まで読み切ると、何とも、ほのぼの感が

残った。

蔵中、一作目の『雨の降る日と雲の上』を例に挙げてみると、この物語は、新婚家庭を

描いているのだが、夫である主人公がどんな仕事をしているのか、まったくわからない。

繰り返し描かれるのは、夫婦での行動だけである。料理をつくってくれる妻。それも、毎

回きちんと料理を用意するわけではなく、億劫さから手を抜くこともある。しかし、主人

公は、妻の寝顔を見たりして、その心の平穏さに安堵している。主人公が妻に惚れている

ことは文章から伝わってくる。そして、最終的には、スーパーマーケットに二人して買い

物に行って、レジで精算を待つために列に並んでいたのだが、妻は、買ったものをすべて

陳列に返すように主人公に促す。これが、作中で直接かかれているように、世界の貧しい

国で貧困によって飢え死にする子供と比べたら自分たちは贅沢すべきでない、という理由

なのか、或いは、この夫婦の夫の稼ぎが少なくて経済的に本当は困窮しているのか、とい

うことが読者には分からないままに物語りは終わる。この部分は一種のメタファーである。

まだ、さらに読者を諭す寓意の意味での理由が隠されていて、再読するうちにそれに気づ

かされるのかも知れない。

登場人物に、殆どの場合、固有名詞を与えない。

また、説明が少ないので、読者に的確に何がどうなっているのかは伝わらない。だが、

却ってそれが読者それぞれのなかに自分のスクリーンを創り出すことになって、読者それ

ぞれの世界が広がる、と言える。

私の作品の場合は、文体もエンタメの文体から脱却できてなくて、しかも説明が多いの

だが、穴田氏の場合は文学の文体で、説明でなく描写の積み重ねで、読了後、「ああ、そ

ういうことだったのか」と何となく作品世界を理解できるという文学の醍醐味を実践して

いる。

また、作品それぞれは、皆、みぢかい時間を切り取ったもの。さらに、タイトルが表す

とおり、どうやら1985年を舞台として設定しているようである。

たとえば、主人公が彼女に電話するのにも、電話ボックスに行かなくてはならない。

シニフィアンの戯れ、と呼ばれる登場人物の動きを微細に描写してゆくところも見事で、

それによって、読者はそこに居るかのような臨場感を得る。

作品世界に奥行きを与える著名人の名と、その著名人に関しての蘊蓄も、さりげなく書

き挟まれている。「ソビエト書記長、フルシチョフ」「有名な詩人」「精神神経学者、フロ

イト」などだ。

全編、おやっと思わせられる。そして作品世界に引き込まれる。

穴田さんの年齢は、私と同じだから、1985年当時の心境も社会的環境も目に浮かぶ

ように思い出すこととなる。そして、1985年でありながら、作中の世界はすこしだけ

奇妙なのだ。軸をすこしずらせることによって、作品世界に、「揺らぎ」を創り出してい

る。

一つ言えることは、著者は登場人物に少しでも自身を投影しているのであれば、若い頃

の自分を俯瞰してみていることになる。

そうでありながら、俯瞰している自分は一切書き込むことはなく、あくまでも、「あの

当時の自分」にのりうつって書いている。

文字を食べたような感覚になる不思議な小説群だった。

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村

コメント

  1. 山雨 乃兎 より:

    >ビター・スイートさん
    ナイスを有り難うございます。(^。^)

  2. 山雨 乃兎 より:

    >sakamonoさん
    ナイスを有り難うございます。(^。^)

PVアクセスランキング にほんブログ村 新(朝日を忘れた小説家)山雨乃兎のブログ - にほんブログ村
タイトルとURLをコピーしました