内田樹(うちだ・たつる)さんの、『「おじさん」的思考』を読みました。
本書が書かれた意図
昔は、会社でだけでなく、家の家長としても、おじさんは権威があった。おじさんに、
その権威を保持してもらおうというエールを送る意味で書かれたのがこの本。
「自分の国だけが助かればいい」というのが、(動物の世界と同じく)国際社会における
国民国家の基本的な、「正しい」マナーであると考えているからである。【本分引用】
憲法九条改定案のうち、戦争をするための法律をつくろうとされている動きについて、
懸念されている。
在日韓国人が、本名を名乗るべきかどうか、の問題。
本編、付箋を追う
『オン・デマンド教育論』
中学生による暴力事件は、学校だけに限られている。塾や予備校では、事件は起こらない。何故か。「人格的教育要素」があるからである。
『教育とエロス』
学生が教師に隷属しているのは、「知る必要のあること」を教師が「知っている」からである。
教師と学生の関係は、恋愛関係に似ている。
それは、学生が教師に、「自分の知っていないもの」を求めるからである。
そして、そのエロス的欲望があることによって、教師がその対象となり、教育が成立する。
だから、世間で起こる教師と学生の間違いは、起こるべくして起こっている、と。
内田樹は、性的サービスは、「お金の稼ぎ方」として本来的ではないと思っている。「よい仕事」というのは、「高いリスペクトを受ける仕事」だと思っている。
自己評価と他者からの評価が適正にリンクしていると、「自尊心問題」というのは発生しない。【本文引用】
場面が変わるごとにその場にふさわしい適切な語法でコミュニケーションをとれるひとのことを、私たちは「大人」と呼んできた。【本文引用】
しかるに、近代のある段階で、「別人格の使い分け」は、「麺重複背」とか「裏表のある人間」とかいうネガティブな評価を受けるようになった。「統一された人格」を全部の場面で、つねに貫徹することが望ましい生き方である、ということが、いつのまにか支配的なイデオロギーになったのである。【本文引用】
関川夏央氏によると、男の正しい生き方は、「人並みに結婚、しかるのちに人並みに離婚。娘だけを引き取って、父娘ふたり暮らし、これが人生のベストチョイス」だそうだ。【本文引用】
男は、「女の交換」ということを社会的にしている。自分の娘を嫁がせ、他人の娘を自分の妻にする、という図式らしい。
喫煙について
人間は決してつねに自分の健康を配慮して生きているわけではない。自分の健康を害することの方が、自分を健康にすることよりも、本人にとって快適であるような心の動きが人間の中には存在する。【本文引用】
まったく、その通りだな、と思った。
身体に悪いことをトコトン楽しみたい、という欲求
私たちは、「自分を傷つけたい」という倒錯した欲望を抱え込んで生きている。「適度に酒を吞み」「適度な運動をし」「腹八分目に食べて」というような「適度」ということが人間の本性にそもそも反している。【一部本文引用】
適度に吞むより、トコトン吞むほうが容易だそうだ。内田氏も仰有っている。感想として、存分に呑んで、存分に仕事をすればいいのだと思う。多少健康は崩れるだろうけど。
「体に悪いこと」をする私たちの嗜癖は、あるいは「私たちは死すべきものである」という悲痛な事実を私たちに思い出させることをその任としているのではないだろうか。私たちが自分の体を執拗に傷つけ、壊すのは、逆説的なことだが、「私たちはまだ死んでいない」ことを確認するためなのではないか。【一部本文引用】
内田氏の旧友「小口のかっちゃん」(医師)の考えは、「不健康に生きるためにはまず健康であることが必要なのである」という。
毎日、美味しく楽しく酒を飲むためには、酒を飲めるだけの健康が必要、という論理だ。
・別姓夫婦の「先進性」に異議あり
一人暮らしは生活費が多少高くつく。病気のときや老後を思うと不安だし、話し相手がいなくて寂しいこともある。けれども、誰にも従属せずに生きるという状態は、そのような「対価」を支払ってしか手に入れることができない。【本文引用】
・平常心の人を信じるな
災害や破局的事態に遭遇したとき、「平常心」の人は、状況にそぐわないとんちんかんな行動をとって、結果的に自分を傷つけ、周りにも迷惑を及ぼす。【一部本文引用】
・転向について
内田氏が武道を稽古したのは、できるだけ「痛い目」に遭わされないため。
武道の心得があっても、多数の悪漢に襲われたら勝てない。だから、「やばい」という状況を予知する能力を培うためだった、と仰有る。逃げるために。
・大学全入時代にむけて
最近の調査で、小学校六年生の段階ですでに算数の授業を理解できなくなってしまった小学生が過半数を超えている。
授業を聞くのを止めてしまうというのは、とても深刻なこと。「ものを習う」ための基本的なルールが身につかないから。
社会へ出てからも、色んなセミナーに通ったり、本を読んだりして勉強していく。そのための基本的なルールが身につかないのである。
「ものを習う」というのは、「知っている人間」から「やり方」の説明を聞き、それを自分なりに受け容れ、与えられた課題に応用してみて、うまくいかないときはどこが違っていたのかを指摘してもらう、という対話的、双方向的なコミュニケーションを行うという、ただそれだけのことである。このコミュニケーションの訓練を通じて、子たちは、「説明を聞くときは黙って、注意深く耳を傾ける」「あとで思いだせるように(ノートなどの補助手段を使って)記憶する」「質問は正確かつ簡潔に行う」「集中している人の邪魔をしない」などという基本的なマナーを身につけてゆくのである。【本文引用】
・押し掛けお泊まり中学生
「ナマハゲ」は、「社会的規範」の象徴。
親より上に、それよりはるかに強大な権威者があるということ、それがときには理不尽な暴力的制裁を子どもの上に行使する可能性があるということを教える。これを教えるのが「子どもの社会化」ということ。【一部本文引用】
・フリーターの隠れた社会的機能
藤本義一氏が、フリーターを称揚する記事を書いていたそうであるが、内田さんは、フリーターという存在は、「失業者の隠蔽」のための存在だと言っている。
失業者というのは、「自分は失業者だ」と思っている人のことであり、「自分のような能力のある人間が当然得てよいはずの社会的地位や収入が得られない」ということで怒ったり恨んだり悲しんだりしている人が失業者。自分のことを失業者だと思っていない(だから怒ってもいないし、恨んでもいない)人は、無収入であろうと、定職がなくても、「失業者」とは呼ばれない。【本文引用】そのことで、日本の失業率は世界的な低水準を保っている。
一見、大学生や主婦やフリーターなど、しかも真面目に家事に取り組んでいないとか勉学に邁進していない状態の人たちが居ることが、失業率の低水準化に役立っていて望ましいことのように書いているが、どうやら、内田さんの皮肉のようである。
内田さんの本意としては、勉学やスキル習得に励んで、自分たちが低賃金しかもらえていないことを不平に思い社会にプロテストする生き方のほうが当然の生き方なのに、なぜそれをしないのか。ぬるま湯に浸かった人たちよ、と言っているようである。
私もそう思う。他に目指す道があって、ライスワークとしてフリーターをしているならまだしも。
・就職活動をする学生たちへ
大企業と呼ばれている企業で、昔から長年つづいている企業はない。今は中小企業であっても、その企業がやがて大企業になるのだ、ということ。クライアントやパートナーにとって仕事をするのが楽しい相手というのは要するに「フレンドリー」で「正直」で「公正」な人間である。
企業は、「人間的に成熟しているように『見える』人間を採用するし、採用すべきである、と。この、『見える』というのが、つまり面接官にそう見えるように見せかけることが、人間的成長に資することにもなる。
企業の知名度や資本金と「職場が楽しい」ことの間には何の関係もない。
著者がこれまでした仕事の中でいちばん楽しかったものの一つは、アーバン(著者が友だちたちといっしょに作った翻訳会社)の創業期に、バイトの女の子たちとオフィスに座ってせこせこと「英文マニュアルの切り貼り」をしていたとき。ずっと手は動かしているのだが、頭はほとんど使わない仕事だったらしい。FMラジオを聴き、ときどき珈琲をのみながらおしゃべりをして、午後5時になって仕事が終わるとみんなで連れだって芝居やコンサートに出かける。そういう仕事。【一部本文引用】
内田さんが学生に薦めるのは、「毎日会社にゆくのが楽しみ」であるような仕事。
・ひとは『ドラえもん』だけで大人にはなれない
苦役に耐えるようにして読まなければならない書物というものがある。高校生や大学生の手持ちの知識や感受性や理解力をもってしては、まったく歯が立たず、それを読み通すためには、自分の考え方の枠組みの容量をむりやり押し広げなければならないような、ときにはおのれの幼い世界観が解体する傷みに耐えねばならないような読書経験。【一部本文引用】
そういう読書を通して、人は成長する、と内田氏は言いたいのだろう。
若い世代が、最近は、サルトルやカミュを読まないことを嘆いておられた。
・幼児虐待の拡大再生産をふせぐために
子育ての責任。わが子を虐待した親の場合、「わが子を虐待するような親」を育ててしまった親に先送りされる。あるいは、専業主婦という生き方そのものが暴力と憎悪の温床なので、専業主婦という生き方を強いた社会構造に責任がある。あるいは、「父の不在」がいけない。こういう論理がまかり通っているが、内田氏の考えでは、責任を転嫁する理由にはならない。親が責任を持つべきだ、と。
子どもの親になるということは非常に重い責任を、「誰にも代わってもらうことのできない責任」を引き受けること。子どもは「むいぐるみ」のようなかわいくてふにゃふにゃしたものであるばかりではない。それを保護し、養育するものの「全面的責任」を要求せずにはいない存在。そのような責任に耐えることができるだけの心身の成熟を要求せずにはいない存在。【一部本文引用】
「そんな重い責任なんか負いたくない。成熟なんてしたくない」というひとには「では、親になるのを止めなさい」と言うほかない。【本文引用】
まったく、その通りだと思う。私も、こういう覚悟が持てないので子どもは作らなかった。
・「大人」になることーーー漱石の場合
同じ風景を見ても、古典をたくさん読んでいる人は、幾多の古典から感慨を引用できる。
予定や計画ばかりを立てているよりも、行動してみることが大事。
ガチンコ・ラーメン道の話。技術的なことを一切教えないサノに対して、生徒たちは苛立つ。「人にものを学ぶときの基本的なマナー」を知れよ、とサノは言いたいのである。師を「知っていると想定された主体」と想定することが大事。「師に仕える」という姿勢になれれば、スキル的なものは、以後ほとんど自動的に習得されてゆく。
まったく、その通りだと思う。
この謙虚な気持ちがなければ、師の教える技術も自分には入ってこない。
「大人」というのは、「いろいろなことを知っていて、自分ひとりで、何でもできる」もののことではない。「自分がすでに知っていること、すでにできることには価値がなく、真に価値のあるものは外部から、他者から到来する」という「物語」を受け容れるもののことである。【中略】自分は外部から到来する知を媒介にしてしか、自分を位置づけることができないという不能の覚知を持つことから始まる。【本文引用】
これは、痛烈に自分の考え方を揺さぶりました。
文学を書く場合でも、学んで書いていくと、根拠のない自信過剰の状態から、「自分は、まだ何も知っていない」ということが自覚されてきます。
いくら、或る閾値まで到達しても、さらに上があります。
ロールモデルを持たない人間は「大人」になることができない。もっとも教育効果の高いロールモデルとはどんな凡庸な弟子でも受け容れてくれて、人間的成長のための道筋を示してくれる「先生」である。そのような芸当ができる「よい先生」は本質的に非標準的・非規格的な人間だということ。「プリンシブルのない先生」「内容のない先生」。先生自身が矛盾し、分裂し、引き裂かれているために、つねに「フロー」の状態にある。よって、弟子の持ってくるどんな無理難題でも、「うーむ、ま、そういうのも、ありだわな」的にゆるやかに包み込むことができる人。【本文引用】
「内容」のある「先生」からは、定量可能な知識やスキルがあれば、弟子はそれだけを照準して「習う」だけである。弟子自身がもっているものを量的に、水平方向に拡大しているだけのこと。
弟子の自己同一性に変化をもたらすのが、本当の意味の「先生」。
以上。要約的になってしまった書評だった。
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感想
感想としては、内田さんは、結論と理由を簡潔に述べることはしないな、と思った。
ご自身のなかでも、これに対しての主義というのが決まっていない事柄もあって、一つの文章のなかで結論が変わっていったりするのも、そのまま文章として書かれていた。
そこが哲学的だった。
共感したのは、人間、健康のためを思って「適度」な飲酒や喫煙で抑えることができない生物である、という意見。
「分かってるんだけどねーー」ということを認めよう、ということ。
自分の暮らしが豊かになるように、社会に対して要求すべきことは要求しよう、という考え方。
読書を、ただの娯楽に留まらず、今の自分では咀嚼できない本を読むことにも挑戦しよう、という考え方。そしてそれは、昔の大学生の美学でもあった。ということ。
以上の点に共感しました。
内田さんの人柄もにじみ出ていたので、面白かったです。
*内田樹氏の他の本の感想は、こちら→ 『価値観再生道場 本当の仕事の作法』