諏訪哲史さんの、『アサッテの人』を(文藝春秋九月号で)読みました。
オット、もう単行本化されていたのか、と、アマゾンバナーが有って驚き。
大体、四大小説月刊誌の新人賞になった作品が、芥川賞に選ばれるということが多いようです。
吃音という障害を持った叔父が、大人になった時、ある日急に治ってしまっている自分に気づいて喜ぶ反面戸惑う。
言語で意思疎通する人間関係の枠に納得がいかなくて、叔父が開発したのがアサッテの世界、その言語。突如、ポンパ、とか、タポンテュー、とか、チリパッハ、とかいう意味を持たない言葉を家族の会話中にも、知人を招いたときにも出してしまう。
これは、この気持ちは分かります。
例えば冠婚葬祭の儀式のときには、決められた言葉だけで進行していく場面がある。そういう時、何の脈絡もない言葉を言ってみたくなる。漫画家の蛭子ヨシカズさんも、テレビ番組で同じ意味のことを言われていたことがありました。
そして、この物語は、叔父の日記を本文に挟んで掲載していくことで成り立っている訳ですが(叔父の日記を作者が散文として読めるように改訂はしている)、吃音もなくなって、アサッテの世界を妻と愉しんでいた叔父でしたが、その妻が、病で亡くなってしまう。
その後の叔父の日記の脈絡のなさ、それは、叔父の発狂しそうになる喪失感と虚脱感を表しているのだと思います。
諏訪さん、なるほど、そう来たか、と思いました。(小説の手法として変わっていた)
叔父は、現在は行方不明になっています。叔父の現在を明かにしないことが、悲劇性やリアリティーを与えるのだと思います。
読み方不足で、ストーリーの説明に誤りがありました。
主人公の叔父の妻が亡くなったのは、病気ではありません。確か、増水した川に呑まれて、だったと思われます。詳しくは、作品をお読みください。
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