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『読書のチカラ』読了(追記あり)

 齋藤孝さんの、『読書のチカラ』を読みました。


読書のチカラ (だいわ文庫)

読書のチカラ (だいわ文庫)

  • 作者: 齋藤孝
  • 出版社/メーカー: 大和書房
  • 発売日: 2015/06/12
  • メディア: 文庫

 感想は、追記をお待ちください。

 

   追記・感想

 

 読書が、心に深く作用すること。

 この点が、ネットなどで情報を集めるだけの知識の得かたと完全に違う、ということを、

まず仰有る。

 知識・情報は、受け手側が深い考察や理解力や速い思考力を持っていないと、ただ読ん

でも深い知恵として身につかない。と、こういうことだ。

 

 カバーにも惹句としてあるが、「本がある。我々は独りではないのだ。(不安でたまら

ない淋しさに襲われるとき、悲しみの底で歯がみするとき、本には、人間の生命を立たし

める力がある)」【ブックカバー引用】として、いくら孤独の淵の縁に立たされることにな

っても、読書は力を与えてくれる。ということを力説される。

 本編からになるが、人間関係として、仕事でも、どうしようもなくつまらない人間に翻

弄され、しかし、その人とも付き合わなければならない場面はある。これは仕方のないこ

となのだが、その分、家に帰って独りの時間をつくって本を読もうと、読書を推奨されて

いる。それは、なぜかと云えば、読書は、各分野の一流の人が書いた本を読むことであり

(これが、そうとも言えない人の著作物も多く、最近は出版されているので、見極める目

も大事だと仰有っていたが。さらに、古典のなかにも、読んでも退屈なだけで新事実を知

ることすらない書籍まであるらしいが)、そういう一流の人の本を読むことは、つまり、

一流の人と対話していることと同義である、と仰有っている。しかも、具体的に細かいと

ころを突っ込んで直接説教される場面はない。読書なのだから。だから、口やかましい耳

が痛くなる正論も、落ち着いて、自分の場合はどこが問題なのかを自省しながら読むこと

が出来る。対話することが出来る。尊敬できる師から面授を受けることは素晴らしい。しか

し、それが叶わないとき、つまらない人間にばかり影響を受けているときでも、読書なら、

直接、一流の人と対話ができる。こんな優れたツールは、本以外にはないのではないか、

と私も思う。

 

 私が、この本のなかで注目し首肯した新事実について取り上げる。

 日本語は、頭のなかで変換をして理解する言語であること。

 日本語は話し言葉でも、平仮名、カタカナ、漢字、それらすべてが交じった文として聞

き理解する。また話すときもそうだ。

 漢字のなかには熟語もあり、決して音だけでは理解できない。同音でイントネーション

(発音のアクセントの位置)(この場合は、語句のを指している)も同じで全く意味の異

なる熟語も多数あるから、文脈からそれを推測して理解する。そのときに、頭のなかでは、

平仮名から漢字への変換が起こっている。というかしている。

 これが、本を読む場合も同じである。

 つまり、日本語の文章を読むことは、頭のなかでプラモデルを組み立てていることと言

える。

 そういう頭の使い方をするから、考えるスピードも鍛えられる。

 

 かつての作家は、教養人でもあった。ただ小説が書けるというだけでなく、教養があり、

詳しい分野も持っていた。人から先生と呼ばれるにふさわしい人物が作家だった。と仰有

る。そして、今から作家になろうとする人は、せめて本を千冊ぐらいは読んでからにして

ほしいとも。

 

 読書はしただけで終わるのではなく、その内容を誰かに伝えよう。どこに感動したか、

どういう新事実を教わったか、などを。そうすることによって、その本を読んだ記憶が長

く自身のなかに残ることになる。

 昔の大学生の間でよく行われていたことだが、読書会というのがある。それぞれ、課題

図書を一冊決めて、それを読んで、みんなの前で発表し合うというものだ。それを、一般

の人同士でもしようではないか、と提案されていた。課題図書を自ら選ぶことによって、

また、同じ本を複数人が同じ期間内に読んでおくというスタイルの場合には、熟読してい

なければ自分が恥をかくことになるので、読書に対する姿勢もより能動的になる。

 

 そういう読後のアウトプットで今の時代一番やりやすいのが、ブログなどによる書評だ、

とも仰有っていた。

 

 一番目から鱗~だったのは、齋藤氏が自身のうちで呼ばれている「快速読み」という読

書手法の紹介だった。

 長編小説などを読む場合、会話の対句の部分だけを読んで、他の地の文は読み飛ばす。

 そういう読み方だと、結局、戯曲(脚本)を読んでいるのと似たようなことになり、進

行が速い。しかし、理解が追いつかない場合もあるが、読み飛ばした地の文での登場人物

の成り行きは、会話文の変化から推測するそうである。この方法だとトルストイの『アン

ナ・カレーニナ』でも速く読める。それで、そういう読み方で、その一冊は読めたことに

して読書履歴にタイトルを書く。そうすると進捗が速いので励みにもなる、と。

 また、面白いところでは、本の内容に賛同して読む読み方ばかりが読書ではない、

ということ。

 著者の意見にいちいち納得がいかず、躓いてしまう本もある。そういう場合、

どうして自分は著者の意見に首肯できないのかを考え、それを議論として反対意見と

して感想なりで理路整然と主張できるように思考を働かせながら読む、という、そう

いう読書のスタイルもあってもいい、と仰有っていた。

 

 読書量が増えれば増えるほど、その人の心のなかに「鬱蒼と繁った他者の森ができる」

のだ。

 始めの話にも戻ることだが、若い人が他人の説教を受け容れられない、というコミュニ

ケーション力の低下がある。

 この原因(根本的な原因)を齋藤氏は、「読書が足りないこと」と仰有る。

「心を柔軟に開いて著者という他者に侵入してもらい、いっそ住み着いてもらうぐらいの

経験がないから、唯我独尊の境地から抜け出せないのである」【本文引用】

 齋藤氏は、この著作のなかでも述べられているが、決して読書だけが、コミュニケーシ

ョン力を鍛えるツールではない。禅の修行や、部活動で研鑽を積むという方法も勿論ある

のだが、万人にとって一番身近にあるのが読書という行為だろう。

 感想として思うのは、前回他の記事でも挙げたが、読書履歴というのは、一人として自

分とは同じ人は居ないのだ。だから、「他者
の森」も、人によって、その様相は違う。

 そういう、それぞれの人にとっての「他者の森」を心のなかに持とうではないか、と思

った。

 現代は、電子書籍なども隆盛を極めてきた。が、紙の本には紙の本の良さがある。

 齋藤氏も私と同じことをされているが、その本から吸収したい、と思える本には書き込

みをするのである。そして、転売などせずに、いつでも思い立ったら手に取れるようにし

ておいて、ときどき読みかえす。また、一冊の本を起点にして、関連の本に食指が伸びる

ことがある。そこから、貴方だけの様相の「他者の森」が構築されていくのだ、と思った。

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グッドラック ぬいぐるみ・クマのペチカ

コメント

  1. 山雨 乃兎 より:

    >ビター・スイートさん
    ナイスを有り難うございます。(^。^)
    感想、すこしお待ちくださいね。

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