浅田次郎さんの、『地下鉄(メトロ)に乗って』を読みました。
戦前、戦後、父がどのように成長してきたのかを追う旅。
主人公の家族も含めて、下着の商社の上司、同僚との関係、親族のそれぞれの事情ということが、ストーリーに常に絡まっていて深いなぁ、と思いました。
読んでいる途中で、「ちょっと、簡単にタイムスリップし過ぎじゃないか」と思ってましたら、友人でもある主人公の会社の社長の、「そんな現象に何度も出くわすには、原因と結果がある筈だし、それには理由がある筈だ」という言葉が、頻度の高いタイムスリップにも必然性を持たせました。
そして、意外なラストとなる訳です。
ネタバレになりますが、最後(結末)は、主人公の真次が生まれてこなかったことにしても成り立った筈です。しかし、みち子が消えることで、自ら存在を消してしまうことで、真次に対する恋愛の本気さも、物語としての悲劇も成り立っているんだと思います。
余談ですが、タイムスリップそのものは、普段の社会のなかで既に起こっているのかも知れない、と、ふと思いました。見知らぬ他人から妙な言葉(身近な人間しか知っていない筈の内容)をもらったりすることがあるからです。常識的な現象だけが現実を埋めてしまっているのじゃないかも知れない等と思います。
戦争というものが、大きく人生を変えたということもテーマとして描かれていると感じました。
第三軌条(サードレール)という地下鉄特有の電源供給システムは初めて知りました。
コメント
>kyonさん
初めまして。
ナイスをありがとうございます。(^^