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『遊びをせんとや生まれけむ』読了(追記あり)

久世光彦さんの、『遊びをせんとや生まれけむ』を読みました。


遊びをせんとや生れけむ

遊びをせんとや生れけむ

  • 作者: 久世 光彦
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2009/08/28
  • メディア: 単行本

感想は、追記をお待ちください。

追記・感想

ご自身が女遊びをしてこられたことを振りかえる場面から始まって、様々な大人の遊び(博奕

なども)遍歴を回想する本編。

遊びがなければ何の為に生まれてきたのだ、との遊びの重要性を説く哲学のようでもある。

久世さんは、戦前の生まれで、幼い頃に空襲を何度も経験されている。

後半で語られる戦後すぐの映画館内の様子。そこには、いつも焼け跡の匂いがどこからともな

く来ていたのだと仰有る。新興ビルが急ピッチで建てられていくのに、長年に亘って焼け跡の匂

い(生身の人間が焼けこげた匂いを含む)は消えないでいた。

そんな中で、久世少年は、エロスに目覚めていくのであった。

ストリップ嬢が金をとり公演のあとに個々に局所をスカートのなかでマッチの灯りだけで開陳

するなどという儀式にも参加していた久世少年。現代ではそんなことをしなくても、と言えるほ

ど何事もオープンになった。隠されていたからこそ一部のマニアだけが知りうる快楽というもの

があったのではないか、と思う。

テレビの黎明期から演出家・プロデューサーとしてのお仕事をされているようだが、その当時

の番組制作の様子が熱く語られる。この業種は仕事でありながら「大の大人がみんなで遊んでい

た」のである、と語られる。やはりクリエイターというのは自身が愉しんでいないと観衆を喜ば

せることは出来ないものだなぁ、と再認識した。

小林亜星さんや樹木希林さん、たこ八郎さんの奇譚も語られる。その親交とご本人たちの人と

なり。特に、たこさんのことは私は昨日のことのように思いだした。そして懐かしかった。

死ぬ前に何を聴きたいか。つまり音楽で、というエッセイも興味深かった。久世さんにとって

は、「マウイ・ワルツ」であるらしい。

賛同した考えは、「頽廃そのものを愉しむ」という生き方。大げさなものでないとしたら、歌

に限って言えば、割と当てはまるものだ、と本編からは納得させられるのだが、国粋主義真っ直

中のナチス軍歌やナチスが推奨した曲なども、はたまた高度経済成長期に日本に於いての歌謡曲

でも、清々しい明るい曲よりも明るさは有るけれどという段階のデカダンスに陶酔しているよう

な頽廃の歌詞の歌の方が、久世さんの心により強く残っている、という事だった。

そうかも知れない、と思った。

文学に毒が必要というのも似たことだと思う。

久世さん世代だと戦争体験はあるが、戦地には徴兵されることのなかった世代である。随分ひ

もじい思いや空襲で生きるか死ぬか、といった修羅場もくぐられているが、その後の経済成長期

に先頭に立ってエンタテインメントを提供するお仕事をされ、また個人的な遊びも充分にされて

いる。この世代やもう一つ下の団塊の世代などが一番幸せな世代なのではないだろうか、と普段

から思っていることをさらに思った。

その久世さんもお母様の死のあと、後を追うように急逝された。お父上の形見の爵(中国の骨

董品で宴会の折りに酒を注ぐ為の銅器)についてエッセイを書かれていた久世さんもその途中で

のお母様の死により、さらに鑑定の結果、爵が偽物だったことの落胆により生きる張りを無くさ

れたようである。(詳しいことは知らない。ただ、そう拝察するのみであるが)

若いときの無理が身体に祟ったんだろうな、とは推測できる。

しかし、たとえ無理をしてでも、愉しみながら創作する、その事自体に意味があったのではな

いか、と思う。

戦後すぐから現代までの期間に、これほどまでに心に残る映像や歌があることは私たちにとっ

て財産である。

巨星が去っていった、と、感慨に耽った。

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コメント

  1. 山雨 乃兎 より:

    >takagakiさん
    ナイスを有り難うございます。(^。^)

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