『巨人の星』その瑕疵性について…
これから書く文章は、故・梶原一騎氏を批判している訳ではない。
『巨人の星』は、取るに足る作品であり、充分に世間と主人公の実在を描いている。
その上で、敢えて言うが、第157話の話しは何なのか。
左門豊作が、都会の阿婆擦れの女性に恋をする訳なのだが、その恋の最後も、実妹に盛り場ま
で迎えにきてもらって自身を省み、新しい境地に突入するという事で終わっている。
馬鹿馬鹿しくて話しにならない。
実際の恋心というものが、女番長『京子』に諭されたからといって、そう簡単に醒めるだろう
か。
もし、リアル性を第一義に求めていたのであれば、これは、取りこぼしである。
もう一つの焦点は、『大リーグボール二号』の最後である。
大リーグボール二号は、確かに花形満に打たれはしたが、その打たれたシチュエーションは完
璧なものではない。一本足打法に見せかけて星飛雄馬の心を揺さぶり、足を高く上げさせなくし
た結果による完全に消えていないボールを花形は打ったのである。
これでは、大リーグボール二号は、完全に破れたとは言えないのではないか。
きつい事を言うが、現実に近い内容を心がけて梶原一騎は描いたのだろうが、現実、リアル感
に徹するのであれば、完全には現実に近づいていない。
しかしながら、『巨人の星』は、出来すぎた漫画である。
登場人物同士の会話中にも、かなり難解な熟語が平然とはいっている。
難解といっても、現代で『文藝春秋』が一通り読める人ならついていけるレベルだが、一野球
人が、これほど難解な熟語を普段の生活で多用していたとは考えにくい。
それだけに、対話の場面では深みを増すことは事実である。
この漫画は、是非見るべき漫画だと思う。
たとえ根性論とは関係のない世代だったとしても、受けるものは確実にある。