『1995年』ーーー8

 何故、神経症になどなったのだろう。

 医者からはベゲタミンという睡眠薬を出された。昼間はコントミンとピレチアとい

う二種類の安定剤を飲んでいる。

 もう仕事では使いものにならないだろう。昼間も眠けでぼうーっとしている。しか

し、薬を飲まないと神経が立ちすぎて苛々してくる。芥箱を蹴ったのは最悪だった。

別に部下に腹をたてていた訳でもないのに、おれはどうにかなってしまったんだろう。

会社の方も三ヶ月の休職命令を出したが、辞めてほしいのかもしれない。

 十時頃に目覚めて、朝から缶ビールを飲むようになった。

 父も母も隆もそれを責めはしなかった。

 安定剤を飲んだ上でビールを飲むと妙な具合だ。毛細血管を絞っておいて血液を濁

らせておいて大量の水分を血管に注入するような感じだ。手足の末端にとくにそれを

感じた。

 大阪の病院から紹介状を書いてもらって、車で一時間ほどの栗山病院という精神科

専門の個人私立病院に通っている。二週間に一度の土曜日に、隆は仕事を休んでおれ

を送ってくれる。

 おれの担当医はおれの飲酒には穏やかだった。栗山という院長だと叱りとばされる

らしい。アルコールは薬効を強めたり弱めたりするし、アルコールと薬が化学反応を

起こして有害成分が消化器内で発生することもあるらしい。

 おれの病名は心因反応という。鬱病とも違うらしい。

 酒を飲んで音楽を聴いてときにはフォークギターを小さく弾いたりして一日は終わ

っていった。近くに図書館が出来ていたので行ってみたが、薬を飲んでいる今のおれ

には文字を追う機能がさがっていて三頁とも本は読めなかった。

 

 弟がまえに言っていた農家に、行ってみることになった。

 四方田さんというその農家に、おれは住まわせてもらうことになった。

 五十代と思われるご夫婦には、隆からおれの病状は充分に伝わっているらしい。

 大きな旧家に先代夫婦と合計四人で暮らしておられる。五十代の夫婦の子供は男女

三人とも成人され東京に出ておられる。二男の今は大学生の子が往く往くは地元に帰

ってきて兼業農家をされるらしい。しかし、それも確定ということではないそうだ。

「こんな田舎には、戻ってこん言うかも分かりませんがなぁ」

 四方田夫人はそう言う。

 隆と母が帰ってしまって、おれは社会との繋がりを急に切り離されたように感じた。

今の処、昼間も薬を飲まなきゃいけないようなおれが居候のような立場で、相手を気

分わるくさせずに立ちまわれるだろうか。

 六月の梅雨にはいったところだった。

 大根の味噌汁が旨かった。

 

 田畑は一町もあった。

 ただ国の減反政策で、今は三反しかつくっていない。

 三反の飛び地の田に、ご主人が、休みの日や勤めから帰られた後、灌漑をされ、田

植え機で苗を植えていかれる。もう一反の飛び地にはトラクターではいって開墾され

た。

 おれは水を撒いてごつごつの塊を溶かし、ショベルで盛って最後に押さえていって

畝をつくった。しんどい作業だったが昔アルバイトでやった鉄工所の仕事よりは益し

だった。時間に急きたてられる仕事のやり方ではなかったからだ。

 一反の畝をつくるのに三日かかった。

 二日、田んぼの方の田植え機で植えきれていない処の田植えを、手でやった。その

間に土が乾いて、畝は丁度いい具合になった。

 キクイモと里芋を、水を含みがちな処の畝に植えた。

 他の畝にはスイカとカボチャの苗を植えた。

 さらに別の日には黒豆と大豆の種を蒔いた。

 それぞれの畝の生えかけた雑草を抜き、畝の側面にビニールシートを張って草抑え

とした。

 毎日、作業をしては眠るだけだった。一日、二時間程度なら楽なのかもしれない。

おれは、毎日、八時間、そんな作業をつづけた。

 四方田夫妻には気をつかってもらった。おれだけの六畳間を用意してくださった。

団欒の間からは一番遠い西の端だった。長い廊下を通っての端にある。酒も煙草も、

飲んで暴れたりという迷惑さえかけなければ、好きにやってくれていいと言われた。

 四方田さんのご主人は勤め人だった。どんな仕事かは分からない。おれも敢えてそ

れを訊くのは控えた。

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