サンデルの「白熱教室」などの授業を見ていて思うのだ。
社会全体の幸福度を上げることと、個人の最低限の人権を護ることの、仮定的な議論で設定される状況に、
片や、恣意的な殺人が伴うものが多すぎる。
選択の余地なく、動きとして避けられないことの中に、自分が望まない殺人(結果的)があるのと、
多数の幸福のために、恣意的な殺人を犯すのもアリ、か、とする議論に、そこでは、その軸での議論でないのに、ごっちゃまぜにして議論することに無理があるように思う。
対極の条件の設定として不公平な設定をもってきている、と私は思う。
問いの設定が、同じフィールドに立っていない。
電車が避けられなくてブレーキも効かない状況のとき、(電車の運転士に)ハンドルを切って二つの違う状況の路線に行くことを選択する、という問い、と、
分岐していない線路で、誰も改善策を施行することが出来ない状況で、線路脇に居た自分の隣に大柄の男が居るから、その男を線路に突き落とせば、最悪の事態は避けられる、という、対立する項目自体が、同じフィールドに立っていない。
片や、自分に出来る最善の行動は何か、と問うているのに対し、
一方は、恣意的な殺人を犯すべきか、という、違うレベルの行動をすべきかどうか、という問題までをも含んでいる。
一方は、義務があり、することとしては選択だけである。
片や、一方は、それをしない自由も与えられており、それをしなければならない義務はない状況である。
まして、後者は、能動的殺人である。
これは、不自然な議論と言わざるを得ない。
或いは、サンデルは究極の選択の選択肢の中に、能動的殺人とやむない殺人、という項目を敢えて出現させたのかも知れない。
サンデルとしては、出演者に、そこに気づいてもらいたかったのかも知れない。
コメント
>ビター・スイートさん
ナイスを有り難うございます。(^。^)