十代、二十代の頃と、今のもうすぐ五十に手が届くという時期とを自分なりに比較してみると、若い内は、何かに熱中したらとことんまで没頭していたなぁ、と思います。
中学時代はトロンボーンを吹いていました。綺麗な抜けた音が出るまで長時間ロングトーンしたものです。
高校時代以降、ドラムをやってましたが、それも、ライバルが知ってて自分が知らない知識があることが許せなくて、必死で情報を集めていましたね。
たとえば、フュージョンのときにチューニングするタムタムの音、叩いてから音が減衰していくときに自然にフラットするような特殊なチューニングについても、本から知識を得て、即、それを実践していました。
ミュートには、どんなナイロンテープが最適か、とか、キックペダルのビーターの角度をネジをゆるめて調節したりとか。
僕は英語は得意でもありませんし、そんなにのめり込みませんでしたが、のめり込んだ人なら、知らない単語や表現に出くわすと、その場で辞書を引いていたと思います。
それが、何というか、この年になると、一つのことにあんまりどん欲にのめり込まなくなっています。
最近の僕で言うと、折角、高機能・高画素のデジカメを新しく買ったのに、触るのは一日のうちで少しの時間だけ。
いじくりたおせば習熟も早いんですが、「まあ、今日は、ここまで」という感じで、Pモードの設定なんかも、その日のうちに習熟してしまおうとは思わなくなっています。
そう考えると、何でも技術が伸びるのは若い内ということになりますね。徹夜してもまったく堪えない身体的若さも、没頭できる要因でしょう。
「何で?」と思ったら判るまで追究をやめない。
だから学問でも伸びます。
ですから逆に、宗教哲学などは、答えがはっきりしないジャンルなので若い内にのめり込むと得なことはありません。
五木寛之氏がエッセイに書かれていたのですが、「本を読むとき、多少わからない部分を、そこにこだわらずに読む」のが一般の人の読み方。
その方が、読書は進捗します。
1ヶ所のわからないところにひっかかっていたら前へ進みませんからね。
立花隆氏が著作のなかで仰有っていたのは、読書はわからないところは跳ばしながら、ともかく同種類・同ジャンルの本をまず多読する、ということです。
それをすると、多くの本に共通して出てくる要素は、基礎的な要素ですから、最初にわからなくても何度も目にするので自動的に頭にはいってくる、ということでした。
若い頃とちがって、集中して没頭は出来なくなりましたが、毎日すこしずつ積み重ねるというのも習熟の方法ですね。
上手くまとまりませんが、今夜はこの辺で。
コメント
よく分かります。私も少し前からですが、仕事で集中力がなくなったなあ、
と思うコトがしばしば^^;。書かれている、立花隆氏の意見は、なるほどなあ
と思いました。私もこうした読書のやり方にしようかな。
>sakamonoさん
もう体力が若い頃とはぜんぜん違っている、と思いかけました。もっと若い内に実際的な仕事などに活かせるスキルを身につけておけばよかったなぁ、とも思います。
立花隆氏の、この本の読み方、便利で有利ですよ。
また、お寄りしますね。(^。^)