随分と長い間、キリスト教の礼拝には行っていないので、かなり憶測を含んだ記事になる。
社会的弱者は、教会では救われない。
なぜなら、教会は、半分、社交パーティーの様相を呈しているからだ。
たとえば、僕が、久しぶりに礼拝に赴いたとして、もう、50歳もすぎているのだから、献金は、一見で来ても1000円は出すべきだろう、という暗黙の了解がある。
ジリ貧で困っていても、社会人で五十代ともなると、1000円以下ではおかしい、と思われてしまうのだ。
次に、礼拝が終わったあとは、「最近、どうされていますか」と、社会的立場を訊く雑談会になってしまう。
「精神障害の具合がよくなくて、働けていません」と言うと、内心で嗤われてしまう。
無教会主義の団体のキリスト教の集会に行ったとしても、病気があって働けていない、ということを容認はしてくれない。
「働かざる者食うべからず」という考え方だ。たとえ、病気や障害があっても。
このように、本当に弱っているとき、礼拝や集会は、助けにはならない。
本筋は、キリストに対する信仰が大事だが、そのことは共通認識ではあるが、礼拝や集会は、半分、社交の場である。
いのちの電話や、近隣の図書館の仲間のほうが、弱っているとき助けになる。(具体的に考えると、図書館でのコミュニティーにも疲れる場合はある。それは、上手く行っていない者同士のマウントの取り合いがあるからだ)
長く集会や礼拝には参加していないので、今では風潮は変化したかもしれないが、僕の今の憶測である。
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