普段TVを観ないので(TVブラウン管が老朽化して毀れていることにも因る)、インターネット放送のGyaoなどで、お笑いの舞台を観るんですよね。
充分に面白い人も居るのですが、
全体的に、「みんな、必死だなぁ」と思うのです。
この仕事を干されたら、後がない、とか、自分に言い聞かせているのでしょう。
あとがないことは、実際にはないと思いますよ。
私なんかと違って、健康なのだから、どんな仕事でも食べていけます。
名を売りたいという意味から、この仕事でないといけない、と思い込む気持ちも分かりますが、
画面を見てると、必死さだけが伝わってきます。
もう一つ、下がって考えてみると、落語家にしろ、漫才師にしろ、昔は師匠について、教わりながら舞台に上がっていた訳ですよね。
そんな短期でブレイクしなくても、師匠が身のまわりのことは面倒をみてくれた訳です。
ところが、最近のお笑いの人で多いのは、師匠の居ないフリーの人ですね。
それだけに、必死ですね。
あんまり必死になっていると、芸自体が、観客側からは観ていて落ちつきません。
お客さんは、舞台に立っている人からのアイリングが嬉しいのですよね。すなわち、「ウソー、今、私に目を合わせてくれた!」というような感慨です。
必死で、コンテンツをこなすだけの芸をしていたら、「この人、大変そうだから、そっとしておこうか」とお客さんが思って、芸人を好きにはなってくれません。
掃除の仕事に、企業や家庭に出向いたときも、あんまり携わっている人が必死だと、業務が済むまでは話しかけないでおこう、となります。
同様に、小説を創作するときでも、周りに色んなことを責められたりとか、時間的余裕がないから、すぐに有名になりたいとか思って書いている文章は、弾けていません。
やっぱり、創作する側に余裕があって楽しんでないと、そういうせっぱ詰まった雰囲気が作品に出ます。
まあ、文学の場合、そういう気苦労そのものを書くのも手法なのですが。
文学の場合は、そういう提示の仕方もあるでしょうが、音楽やお笑いの場合、観客とはオンタイムなので、観客のレスポンスに応じる余裕が必要だと思います。
何よりも、観客は、愉しもうと思って来ている訳ですから。
そんな事を考えました。
では、また。(^。^)