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犯罪の抑止力になる、新たな刑が必要なのではないか。

 今日、といっても正確には前日ですが、夕飯のとき弟と話していたんですよ。

 先日あった無差別殺人事件。

 犯人は、刑務所から出てきて仕事が決まらず、先が不安で死のうとしたが死にきれず、人を殺せば死刑になるだろう、と思って犯行に至っています。

 自殺が出来ないから、他人を殺せば、刑によって死ねるから、です。

 これでは、何もかも犯人の希望通りになるのであって、死刑という刑罰が、それだけは受けたくないという犯罪を抑止する刑罰になっていません。

 犯罪の種類と重さによって、禁固、懲役、死刑とありますが、今回の事件のやぶれかぶれの人が起こす犯罪には、それらの刑が、何も抑止力にならない。

 そういう話をしていたんです。

 江戸時代なら、市中引き回しの上、打ち首獄門、というような刑がありました。

 懲役で使役をやらされるけれど、農作業や木工の作業ではないでしょうか。

 もっと、決定的に、誰が考えても、「それだけは、やめてくれ」と思えるような刑がないと、やぶれかぶれの動機で通り魔殺人を犯す人を抑止できないと思います。

 死刑と決まっていても、死刑執行されるまえに、棘のついた鞭で百回たたかれる、とか。

 全裸にされ、肛門に生花を挿されて、その状態で顔も正面を向かされて全国ネットでテレビで放送される、とか。

 死刑も、今のような安楽な絞首刑ではなく、ギロチンで首を落とされるとか。

 逆さ十字架磔(はりつけ)で、長時間、衆目にさらされて死ぬとか。

 そういう刑罰も新たに(時代を俯瞰して言えば、「ふたたび」)、作らなくては、もはや、やぶれかぶれの人間の犯行を抑止する力を持たないのではないか、と思います。

「あんな目に遭うのなら」と、犯行を思いとどまらせるために刑はあると思うのです。

 少なくとも、今回の大阪の事件、磯飛京三氏には、絞首刑では量刑としても不十分でしょう。

 死刑執行官数人に、包丁で、数十回刺されて死に至る方法の死刑でないと、あれだけ被害者に痛い思いをさせておいて、楽に死ぬのは筋が通りません。

 自分の進退窮まったときに、潔く自殺できるのは、まだ格好良い。これは、私の考え方です。(もちろんキリスト教の考え方でもありません。あくまでも個人としての考え方です)ヒューマニズムとか、生かされているのに自分の命を粗末にするな、という考えではありません。自分の道を自分で決めたら、それを実行すればいいのです。

 そのときに、関係ない他人を巻き込む、とか、まして、殺人を犯して後尻を司法と行政に任せるなどは言語道断です。男の風上にも置けない。

 進退窮まったときに死ねないのなら、ホームレスになっても生きることです。

 初犯があったから、今の結果がある。甘んじてホームレスになるべきです。

 プライドなど捨てて、他人から恵んでもらうことです。

 それも嫌なら、歩き疲れて、冬になって凍死か餓死するのです。

 よく、今が最低だから、あとは上がるだけ、と言いますが、本当の最低とは、住所不定無職になって、凍死か餓死するラインです。借金が膨らんで、逃げて、就職もパートも決まらず、頼る人もなく、宿に泊まる金もなく、腹を空かせてボロ着で街を歩く。これが、本当の「最低」ラインです。

 まだ、所持金20万、あったのでしょう。

 そこまでの苦労をしても、決して他人に迷惑をかけてはいけません。

 迷惑をかけるときは、恥を捨てて物乞いするのです。

 犯人は、護送されるとき、顔も隠そうとしない。格好悪いという意識も、世間に顔向けできないという意識もなく、自分の思いを達成したという感慨だけでしょう。

 自分が死ねないくせに、いっぱしのことをやった気になるな。

 と、思うところを書いてみました。

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