知人のことを書きますが、
迷惑のかからない形で書きますので。
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知人が、僕も知っている或る店の若奥さんのことを話すのです。
「商売では、あまり儲かってなくて、生活が苦しいので、店主である夫公認で身体を売る仕事もしているらしい。おれ、頼もうかな」
最初、そうなのかな、と思って聞いたんですが、
先日、その店にも行くことがあり、様子もそれとなく窺いましたが、
とても、他人相手に身体を開く人とは思えない。
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石山勲さんの著作にも書かれていますが、統合失調症に罹患している人は、思い込みや妄想が、順番に連結して、最終的に、ありもしない現実を、ある、と思い込んでしまうらしいのです。
僕の場合は、それはありません。幻聴や幻覚があった時期もありましたが、今は、陰性症状の「考想伝播」だけです。
幻聴や幻覚があったときも、事実の誤認はありませんでした。
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ですが、事実誤認がある統合失調症の人もいるのです。
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「ああ、あの店の若奥さんは美人だ」
「わあ、僕に微笑んでくれた」
「ひょっとして、僕に、気があるのかもしれない」
「これは、完全に、僕に気があるのだ」
「抱いてほしいのかもしれない」
「それを、僕に言わないのは、表向きのポーズだ」
「この店、そんなに繁盛しているとは思えない」
「お金に困っているなら、奥さんに売春させることもあるかもしれない」
ここで、「かもしれない」が、「事実」に変わる。
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それで、知人や友人は、
「あの店の奥さん、店が儲かってないから身体、売ってるらしいで」
という、完全な事実誤認を聞かされるわけである。
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「山雨、若奥さん抱きたいけど、さきに旦那に許可とったほうがエエかな?」
と、その知人、最近訊いてくる。
旦那が公認で、奥さんにそういうことをさせている、と、さきに言っていたのに、あとで、そんな質問が出る。
希望的観測と、事実が、ごっちゃになっている。
この想像力、創作に活かしたほうがいい。
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【追記】
ここまで書いたが、こういう人は、小説家にはなれない。
「想像力」と言っても、「事実誤認」である。
小説家は、事実がどこまでなのかわかった上で、想像力をはたらかせてフィクションを書く。
しかも、事実誤認も、なぜそうなったのかと言えば、客観性の欠如と、自分に都合のよい解釈である。
よしんば、自分に都合のよい解釈をするとしても、「それは、1つの可能性にしか過ぎないのだ」と自身に言い聞かせることが出来なくては。
フィクションだと把握してないでフィクションを書いても、読者が読んで面白いものは書けないと思うが。
これも、僕の偏った意見だろうか。