まだ、たまに考えているが、考えが二転三転する。
悪人に対して無抵抗であれ、という内容の聖句の意味は、こちらが伝道したいと思う悪人に対して、というのが、理論として落ち着きどころのようだ。
人間、自分は、完全ではない、馬鹿なのだ、ということを悟らないといけない。
僕のように、なまじっかプライドがあると、自分を賢いと思いこんでいる。
賢いと思うのは、いいが、知能には限界があり、全知全能の神からみたら完全な馬鹿なのである。
自分が賢いと思いこむと、何でも完全に理解しないと気が済まないし、何でも理解した気になっている。
これが、哲学脳である。
自分の脳で結論を出そうとする。
聖書の言葉も、自分の脳で理解しようとする。
これが、哲学的信仰だ。
一方、啓示的信仰だと、つねに神と対話しようとする。
つまり、逐一祈る。
そして、神から答えが返ってこなくても、「わからない」は、「わからない」ままに据え置く。
神の意志を聞こうとする。
人間の頭で整理しても、神の言葉は理解できない場合がある、とする。
つねに、神からの命令を待っている。
これが、啓示宗教だ。
僕も、ただの人間だ、ということを認めなければならない。