『第一回、東京家出の記』

 僕は、定時制高校を卒業してから、或る自動車会社のセールスの仕事に就きました。

 定時制の時代は、学年がだぶっていて、不眠症とか事故の後遺症であったのもあって、大学に行かしてもらったんだ位に考えて、アルバイトぐらいしかしていませんでした。

 自動車のセールスはものに成りませんでした。哲学問答が常に頭のなかで渦巻いていて、新規をとってくるどころではありませんでした。

 そうそう、思いだしましたが、この自動車会社の名古屋での一週間の研修の折、のちにB21スペシャル(名前が間違ってたらごめんなさい。すぐ訂正します)からタレントに成られたヒロミさんとご一緒しているのですよ。彼は、高卒での研修参加だったので、実年齢は僕の二個下でした。この後も僕は、有名人とニアミスを繰り返すことになります。

 三ヶ月で仕事を辞めた僕は、今度は印刷屋の職工に行きました。

 印刷屋というのは、その当時、もの凄い残業時間でした。ひと月に百時間を超えることもざらでした。

 そうなると、土曜日まで仕事で、日曜日は身体を休めるだけになってしまいます。

 毎日、毎日、朝から夜遅くまで印刷機を回して、失敗しては社長に怒鳴られていました。

 仕事ばかりの人生だと、一体、俺は何の為に生きているんだ、と思うようになりました。

 給料が入ったばかり(印刷という仕事自体が剰り高給でないのかも知れませんが)のときも、あんまり嬉しくありません。高くありません。先輩を見ていても、仕事は慣れていらっしゃるから簡単にこなしておられるのでしたが、そんなに長い時間仕事ばかりにとられて何とも思わないのだろうか、と、僕は思っていました。

 僕の前にも一人辞め、僕の後にも3人ほどが辞められたと聞いています。でも、現在では職場待遇は改善されているだろうと思われます。とにかく、それ程残業するのが当たり前の業界でした。その当時は。

 印刷屋は10ヶ月で辞めました。

 僕には、夢が有りました。

 カシオペアの神保彰さんのようなドラマーになりたいという夢でした。

 夢の話を身近な大人にしても、「そんな事は諦めるんだな。もっと、確実に生きられる仕事をしなきゃ」と言われるばかりでした。

 よく相談する兄のような知人に相談すると、「そんな事より、エエ若いもんが無職でぶらぶらしとる方が可笑しい」と言われ、僕は、その人の言葉は教科書的に従っていましたので、(当時の僕には自我意識が少なかったのです)失業保険を待たずに、今度は或るギターの先輩が紹介してくれた鉄工所に勤めはじめました。

 だんだんに仕事を憶え、NC旋盤も扱えるようにはなったのですが、僕は午前中は睡眠薬の効き目が少し残っていましたので、ときどきバイト(刃)を折ったりという失敗をしました。

 Rの計算といって、製図で加工品を表したものを見て、当時、マシン語という記号で書かれた式を創り出す。それをやってみろ、と社長に言われ、それも毎日やりました。

 簡単ではありませんでした。しかも、社長は基本的な事以外は一切教えてくれません。

 何度持っていっても、どこが間違っているか分からないまま、プログラム式は突き返されました。

 そんな生活が厭になっていたのだと思います。それに、若いから何度でもやり直しは出来ると思っていたのでしょう。

 地元でオリジナルを作曲している後輩とも一緒に二人だけのバンドを組んでいましたが、なかなか夢には近づいて行かないという現状でした。

 その頃、21歳でしたから、バンドでデビューする人が同年代から続々と出ていました。

 こんなことをやっていても駄目だ。

 生活は出来ても、夢は一向に実現しない。

 田舎に居るからだ。田舎では、きっかけも出来ない。

 そう思った僕は、いや、確かに、仕事から逃げたいという事もあったのだと思います。

 僕は、ついに家出しました。

 22歳のお盆明けのことです。

*次話は、こちら→  『第一回、東京家出の記』2

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