白鳥春彦さんの『聖書の中の殺人』を読みました。
人間に悪意があるのが普通の姿であり、聖書は単なる道徳的な説教を述べたものというだけではなく、現実にあった事件を多く扱っている。
聖書の中の殺意に焦点を絞って読み直すこの本。
ユダヤ教の本来の教えでは、神を主として、人間の王は立てない、その方針でユダヤ人は進んできたのだが、周囲を敵に囲まれ、人民を統治して闘いを牽引してくれる人物が必要になった。それ(王の誕生)は、民衆が望んだものであった。
その王も、サウル、ダビデ、ソロモン、と、全ての王が他の国の様式を真似、妾を多く持ち、神殿を豪奢なもので飾るという傾向に傾いていった。【加筆】ここで問題になるのは、妾が信じている偶像崇拝を、王が受け入れた、という事実である。それがユダヤ教からみての一番の大罪である。恋愛心は、目を見えなくする。妾に愛されたいがために、本筋を外してしまった、ということである。
ダビデが一兵卒の妻に、彼女が月のものを清める為に水浴びをしているところを観て、その美しさに心動かされ、床を共にする。ダビデは、一兵卒ウリヤに、このことを伏せ、ウリヤの妻が妊娠してしまった事実も夫との性交の故であると思い込ませる為、戦地からウリヤを引き戻し、妻とゆっくり家で過ごすように仕向ける。【加筆】「月のものを清める為に水浴び」をウリヤの妻はしていたのだから、ダビデはウリヤの妻を気に入って召して性交したのだろう。恐らく、生理中だとしても欲情は抑えられなかった筈だ。なのに、記述では妊娠した、とあるのだから、生理が終わってからもウリヤの妻と交渉を持っていることになる。夫が自分の国のために戦場に出向いてくれているときに、ダビデはやりたい放題である。
しかし、ウリヤは心正しい人だったので、戦争が大変なときに自分だけ家に戻って妻と寝るなどということは出来ない、という理由で断る。
作戦が失敗したので、ダビデは、今度はウリヤを最前線に送り、身方には途中で退かせウリヤを敵の矢によって葬る。
ダビデの心が信仰の本来の意味から遠ざかってしまったのは、聖櫃を自分たちの住んでいる土地(イスラエルのダビデが治めた土地)に奪還(戦争を起こして取り戻した)ことに端を発すると著者は指摘する。聖櫃を自分たちの土地に置いていると、自分たちは戦争に負けない、というお守り的な意味合いが強くなっていたという。聖櫃がどこにあるかということと、信仰の本拠地であることの根拠にはユダヤ教本来の意味としては強いものはなかったという。ただ、その当時の現地では、聖櫃が地元にある事が心強いとされた。聖櫃を奪還したダビデは英雄視された。
他に、カインのアベル殺し。自らが神に誤魔化して捧げ物を捧げたことは棚に置いて、神が弟を贔屓したと思い込んだことが動機の殺人。【加筆】この場面に関しては、もう一つの解釈がある。カインは捧げ物の量と質をごまかしてはいなかった。それなのに、穀物というだけで、神に喜ばれなかった。という解釈である。神がどう行動しようと、きまぐれを起こそうと、神のほうが正しい、という考え方が一神教の特徴である。
男色の町、ソドムを神は滅ぼした。
アブラハムの、ソドムに住む甥のロトを救おうという思いからの、神への執拗な対話のなかでの質問。ロトとその一家を許し、生きながらえさせた神の恩寵。
神からの予告を伝えたヨナが、自身の対面が保てなくなることを嫌って、(神がニネベを滅ぼされなかったことに対しての恨みも込めて)自身を滅ぼしてくれとまで神に祈ったこと。些細な個人的な怒りが、他人の死を望む、という現代でもあり得るテーマ。
イエスが捕らえられるに至った原因も、キリスト教徒は、預言が成就される為と解釈するが、もっと冷静な目で考察してみると、パリサイ派も含めたイエスがメシア(救世主)であることを見せつけてくれなかったことからの、思慕の念の急激な憎悪への変化であったのではないか、という考察。
ヨブ記の考察では、悪魔は元々は天使であったという説を展開される。悪魔は元天使であったからこそ、聖書を熟知し、神を唆すこともやってのけるのだと。
ヨブ記の考察の中に、文脈として展開される著者の考えで、非常に興味深く、その通りだと発見されるものがあった。
それは、神は理性的でない、という事。神が理性的であるなら、人間の理性で全ての答えが出てしまう。そこをさらに展開すると、神は理性の範疇に居る、という事になる。
だからこそ、ヨブ記での神のヨブへの言葉は、論理や正義を説明するものではなく、神がいかに、超人的か全能であるか、といった事のみを語りかけている。
僕の考えだが、一神教は、因果応報ではないと思う。理屈を超えて急に神の命令が下ることもある。理不尽であるが、それが一神教の世界、現実。それを受け容れていくのが一神教の信仰であると思う。
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