普通に会社勤めをして子育てをして孫の顔を見て、日々、それなりに幸せに暮らせたらいい。
その考え方を私は決して否定しません。
そういう生き方を選ぶ人は、和を大事にして、どんな人とも喧嘩せずに暮らしていけばよいのだと思います。
その一方で、私の様に、何かを究めようとする生き方を選ぶなら、余分な神経を遣わなければその人と上手く付き合うことが出来ないという種類の人とは、全部、縁を切ることです。
マイノリティーな考え方ですが、あくまでも、私の主義です。
生き方を人に強制するつもりはありません。
私は、この四年間で、5、6人の人と決裂しました。
自分の用事に、長々とこちらをつき合わせる人。
私が閑だろうと内心、推しはかって、仕事の量ほどの用事を無賃金でやらせようとする人。
私の病状をいくら言っても理解せず、「そんな事ではアカンで」と、ずっと言ってくる人。
悪漢に絡まれているのに、自分は、この人とは知り合いではないというふりをして喧嘩に介入もせず、止める事もしない人。
自分の肩書きを嘘で塗り固めてつき合いをする人。
平日から、用事もないのに、唯、淋しいから喋りたいという理由で、一日に5、6回も電話をかけてくる人。
会話を始めるとすぐ、相手の弱点を攻めて、自分が優位に立とうとする人。
これで、何人に成りましたか。
私は、これらの人と、全部、縁を切りました。
私は、職業作家になど、成れないかもしれない。
焦っていると、他人には映るかも知れないが、無駄に時間をすごしたくない。
昼間から、たまに農作業をして、後はぶらぶらしているだけじゃないか、と、思いたい人は思えばいい。
一日、二時間、全く何もない白紙に物語りを紡ぎ出すのがどれだけ大変か。
常時、頭痛がある中で、書くことが、どれだけ命を縮めているか。
昔、或る先輩に言われました。
「クリエイティブでなければ」と。
ソロモンの『箴言』か、『伝道の書』に、千人にただ一人の男という寓話がある。
或る時、王は、この世が全く虚しくなってしまった。
そこで、町中を巡り歩いて、語るに足る者、話していていつまでも喜びが湧いてくる相手、一本、芯の通った人、は居ないかと、探しまわった。
まずは、男に当たり、やっと千人目にそういう男に邂逅した。
次に、女にも当たったが、女の中には千人当たっても該当する人物は居なかった。 そういう話があります。
これは、聖書の旧約の男尊女卑の考えが底流にあるのでしょうが、ともかく、千人に一人しか、そういう気骨ある、話に内容がある、話せば話すほど喜びをお互いに増す相手というのは居ない、という意味です。
解釈として二手に分かれますが、その人その人の自分にとっての頼もしい友は、千人に一人だという意味かも知れません。
聖書では、話はここで終わりですが、現実の社会で、千人にただ一人の男というのは、見つけられないで人生を終わる場合の方が多いのかも知れません。
そして、聖書が言いたい事はおそらく、千人にただ一人の男が見つからなくても、神が、その代わりとして充分である、という事だと思います。
聖書の解釈に、二つの、どちらも正しいと言える解釈があります。
すなわち、
人を信じよう。
そうすれば、人は信頼に応えてくれ、その人と善き関係を結ぶことができる。
人を信じると同様に、絶対に正しい神様を信じよう。
もう一つは、
人は、原罪に満ちている。
人など決して、完全には信じてはいけない。
けれども、神は信ずるに足る。
神は絶対に裏切らない。
神のなさることは、それが何であれ、絶対に正しいからだ。
今の私は、信仰とは離れてしまって単に聖書の解釈を述べているに過ぎません。
今、言える事は、時間が惜しいのです。
現世での時間が。
それだけです。
これだけ極端に人づきあいを減らしても、必ず、お互いが有益だと思える相手が、道の向こうから現れる筈です。
独りのままかも知れません。
けれども、それでいいのです。