毎日は規則正しく流れた。
朝に工場に出向き、昼に寮生に用意された弁当を食べる。
五十代くらいの食堂のオバチャンは愛想がよかった。
お茶は、四リットルのやかんから自分で汲んで飲む。
夕方5時。遅くとも6時には仕事を上がれる。
仕事を上がれば、○○製鋼の敷地内にある風呂に浸かることができる。
僕は、そんな暮らしのなかで、週に一度は、池袋に出るようになった。
渋谷のエピキュラスというスタジオにも一人で行って、練習をした。
その当時では、フュージョンを叩くドラマーというのが珍しかったので、スタジオの窓から覗い
ている別のバンドの人もいた。
池袋に何度か行った。
或るとき、夕方から深夜になりかけている駅前で、広島の原爆被害者に折り鶴を届けようとい
う主旨の行動をしているボランティアのブースに寄った。
僕には、ポリシーがあった。
「お宅ら、普段は何しとっての?」
「被爆者に折り鶴を届けるのは、わるい事じゃない。けれども、もっと実際的な援助をするのが
普通じゃないんだろうか。お辛かったですね、と、慰める折り鶴を贈るよりも、自分で働いた金
を、使って下さい、と差し出すくらいでなかったら、意味がないように思うけどな」
と、僕は、そのメンバーに対して語った。
「仕事は、してます。写植の仕事です」
と、ボランティアの方は仰有ったが、道行く人に声をかけて、折り鶴を折ってもらって被爆者に
届けるぐらいのことが有意義だとは、僕には思えなかった。
その一部始終を見ていた、練馬区在住の若者が、僕に、
「面白いねぇ」
と、声をかけてきた。
相手は、二人連れだった。
B君とP君である。
「一緒に飲もうか」
と、B君に誘われて、僕たちは行動をともにした。
B君とP君とは友達になった。
二人とも、1963年生まれの同級生だった。
「おれ、Bです。脚本家を目指してるんだ。市場のアルバイトをしてる」
つづいて、P君は、
「おれは、普通に仕事行ってるよ。フォークリフトの会社(メーカー)に行ってる」 と言った。
「○○(山雨のことです)、なかなか面白い奴だな、お前は。それに、着てるものもそんなにわるく
ないよ。今度、一緒にナンパに行こう。○○、一番いい服を着てこいよな」
僕が、音楽でのデビューを目指していると言うと、
「そうか、おれも、そのバンドとかに、交ざってみたいなぁ」
と、B君は言った。
飲み屋(居酒屋風の洋風の店)では、マイケル・ジャクソンのスリラーのプロモーション・ビデオ
が流れていて、僕は、ちょっとまえに見たホラー映画の『死霊のはらわた』を連想してしまい、調
子がわるくなった。
トイレに行くと、こいつ隙があるな、と思ったのだろう、見ず知らずの同年代の男が盛んに喧嘩
を売ってきた。
「お前に言ってんだよー! 聞こえねえのかよー!」
と、絡んできたが、僕は、相手の顔をじっと見つづけて、相手が莫迦らしいと感じて、喧嘩にな
らずに済んだ。
B君の提案で、僕が、隣の見知らぬ女二人づれに声をかけた。
男女五人で、楽しい酒を飲んだ。
「いいか、○○。ナンパは、失敗するのが当たり前なんだよ。だけど、100人、声かけて、それで
諦めてしまっても、実は101人目に、成功するかもしんない。これ、ジゴロの××の言葉だよ。そ
ういうもんだよ」
B君は、そう言って、僕を励ました。
やっと、仕事以外のバンドの動きにはいれそうな予感がしていた。
僕は、まだ若かった。
馬の目を抜く東京でも、目標があるから、誰も怖くはなかった。
*次話は、こちら→ 『第一回、東京家出の記』13
*トップは、こちら→ 『第一回、東京家出の記』1
コメント