たとえば、人に、芸能人や著名人の名前を出して、その話題をしようとすると……。
「ああ、俺、アイツ嫌い」
だけで話しが終わってしまう人がある。
そんな場合、僕のほうは、その芸能人のことを好きだと、その後、その話し相手とは、
まったく話しが合わなくなってしまう。(少なくとも、その芸能人の話題では)
同様に、(女の人に多いケースなのだが)有名人の話題をふると、
何の脈絡もないタイミングで、
「せやけど、私、あの人好きやで」
と答える人がある。
まるで、人を審査する絶対的権利は自分にあるようなニュアンスで。
「アンタは、神か?」
と心のなかで呟いてしまう。
男の場合、いや、語弊があるなら僕の場合、
その人を好きか嫌いか、は、第一番目に重要な心の領域ではない。
その人を認められる(その人を容認できる)か、その人に一目おけるか、そうでないか、つまり倫理的に許せないか、だけが僕の場合重要なのである。
人間的に容認できるけど、嫌いな人もある。
その場合、「嫌い」という感覚は、倫理的に許せるか、一廉(ひとかど)の功績を認められるか、の要素の、さらに下の要素なので、そんなに僕の心のなかでは重要ではない場合が多い。
しかも、僕が嫌いなのは、倫理道徳的に間違っている人間が多い。
顔つきが虫が好かないとか、そういうことは、あまり心を大きく動かさない。それに、「何となく嫌な相手だなぁ」と思った場合は、付き合ってみると、往々にして倫理道徳が出来ていない人が多いので、最初の嫌いと思った感覚は、容認できるかどうか、と最終的には合致している。
僕の心の容認は、倫理的に、間違ったことは絶対にしない人であるか、か、さらに、少し矛盾するのだが、たとえ少々悪い人でも、一人前の甲斐性があるか、で決まる。
好き嫌いは、その下の要素である。
なんだかまとまらないが、また後日。
コメント
>ビター・スイートさん
ナイスを有り難うございます。(^。^)