車谷長吉さんの、『人生の四苦八苦』を読みました。
例によって、感想は追記をお待ちください。
追記・感想
幼い頃から蓄膿症を患われ、手術も受けられたが、治らなかったらしい。その事につい
ては、他のエッセイでも語られている。
私も幼少の頃、蓄膿症だった時期はあったが、二年ほどで完治した。ところが私は、最
近、歯根の奥が膿んで、それで歯が痛くなったのだが、歯痛は治ったのだが、ほお骨の空
洞が重いという症状が出てきている。こんな症状でさえ、違和感が伴って、物事への集中
をできにくくするが、車谷氏の場合は、常時両鼻とも詰まっておられるというのだから、
それだけでも日々の生活はしんどいだろう、と推察する。
全編で、もっとも多く語られるのが、ご自身の高校受験の失敗の話。
「合格するだろう」と、自身でも思われ、周りからも思われていた進学校、姫路西高等
学校へ不合格となります。この不合格が、「人生の落伍者」のような烙印を捺されたよう
な気持ちにさせ、市立飾磨高等学校の一年、二年のときには、ほとんど授業を受けずに、
バスで近隣の田舎に出かけ、昆虫採集に明け暮れた、とあります。この話がくどいくらい
全編に何度も頻出してきます。
「そんなにダメージでしょうか」というのが、私の正直な感想です。が、十五歳の時期
なら堪えることかも知れませんね。
「四苦八苦」というのは、釈迦が言われた言葉だそうです。
「四苦」は「生老病死」。
「八苦」は、「生老病死」のあとにある、あと四つの苦しみ。「愛別離苦」「怨憎会苦」
「求不得苦」「五蘊盛苦」です。
このことの説明が、大変分かりやすかったです。
とくに、「五蘊盛苦」の「五蘊」に関して、「色・受・想・行・識」であるとし(「色・
受。想・行・色」と言えば、お経の般若心経に出てくるのでピンときましたが)、「食欲
と性欲」が盛んになること、「感受性」が鋭くなること、「想像力」が強くなること、何
かをしようとする「意志」が盛んになること、「世の中ってのはこんなもんや」という「認
識」が激しくなること、という、これらのことが、人間を苦しめることを言う、という説
明も初めて聞いて納得しました。
こういう苦しみは、人間にしかないなぁ、とあらためて思いました。
車谷さんの経歴については、私は今まで何冊も著作を読んでいるから知っていることの
重複もあったのですが、「随分苦労をされていて、何事もやり遂げる執念の持続は偉いな
ぁ」と思うのですが、ときどき、反面「ご自身が選ばれてした苦労しかされていないし、
自業自得だなぁ」とも思うこともあるのです。
高校受験失敗から立ち直られて、慶應義塾大学に進学される。そこまで、また勉強をさ
れたということは偉いです。ですが、最初に入った広告代理店の仕事に「不本意さ、と、
自己矛盾」を感じられて退職され、文学賞佳作入選という経歴があったから何度か文芸誌
にも原稿が載るという作家としての生活をされますが、仕事がなくなりご実家に帰られま
す。そこでお母様に叱られて、「旅館の下足番でもしろ」と叱咤激励された言葉を内容は
その言葉の表面的な意味ではなかったのに、ホントにその通りに下足番になられ、次いで
料亭などの下っ端の料理人をされている。その当時のご心境は、世を棄てて生きたい、と
いうことのようでしたが、それならホントに出家してお坊さんになられればよかったのに、
ご自身でご友人の務めておられるお寺に行って相談してみて、修行がかなり厳しいことが
分かって出家はやめられる。私が思うのは、料理人だったときに、出世を目指したらよか
ったのに、ということです。変に、世を棄てる、と言いながら結局、世棄てでも何でもな
い。その間、長期に亘って作家になることは諦められている。作家になることは諦めて、
世棄てになりたい、と言いながら世棄てにもなれないし、それなら何も下足番や料理人の
仕事をしなくてももう少し給料のよい店員などの仕事でもいいのではないか、と思ってし
まう。別に、車谷氏のことを全面的に批判するつもりはないですが、苦労といっても、自
分から自分が困る方向へ舵をとったから出来た苦労だと思うのです。世を棄てる生き方を
する、と言っておきながら作家として売れてくると結婚もする。言ってることに一貫性が
ない、と感じることもあります。
それでも、下足番や料理人の仕事のときの仕事の厳しさの描写はリアルで、その経験が
あってこそ書ける文学だと賞賛する気持ちに変わりはありません。
話しが脱線しますが、ご自宅は警察に護ってもらっている。さんざん私小説でモデルに
した人たちを傷つけたから多くの人から命を狙われているから。という記述がありますが、
それは嘘でしょう。車谷さん。
伊丹十三監督のように、玄人の世界に、玄人が困るような作品で浸食する、ということ
以外には、個人的に命を狙われて、また、そのことを相談して警察が、そうかも知れない
というような段階で動いてくれるわけはないでしょう。と思いました。
小説家は嘘つきで、嘘が上手くなければ、とは私も首肯する考えですが、エッセイでも
嘘を……。
実は、文芸セミナーに行ったときに、或る作家の方から、エッセイでも、作品が面白く
なるならば、一部嘘にすることはあります、と答えられたことがありましたから、やっぱ
りエッセイでも嘘もアリかなぁ、とは思いましたが。
強迫性障碍のことも、一項目もうけて語られます。
私も幻覚や幻聴の経験があるので苦労を我がことのように読みました。
生活を支えていた奥さんが大変だっただろう、ということも思います。
精神障害の酷い症状の時期には、家族は一緒に居ること自体が大変ですから。
下読みのお仕事も経験されています。
その詳述を読むと、プロの作家と言えども、全応募作品のうち三分の一も預かってきて、
それをたった一週間で読む、というのですから、これでは、いちいち全作品完読はしてな
いなぁ、ということを思いました。
現実にはあり得ないフィクション性が全編のなかに一部でもないと文学ではない。虚実
を織り交ぜないと文学とは言えない、と仰有います。この考え方は、決めつけすぎに感じ
ました。別に私は僻んで言うわけではありま
せんが、私の作品も、殆どの作品に現実には
あり得ない設定を混入させていますし。けれども、現実を詳細に語るだけの文学もありま
す。まあ、この点は意見の不一致でしょう。
話しが戻りますが、下読みがかくのごとく行われているのなら、やはり、重要になって
くるのは原稿の冒頭、書き出しの三ページだと思いました。そこで、目にとまらないと一
次選考を通らないなぁ、と。
白州正子さんに、読後の賞賛・激励のお手紙をもらわれた話し。その白州さんが、或る
方に、若い頃、「君はモダンガール(今どきの娘)だ」と言われたことに対する反発され
ての能楽師としての後の人生についても語られます。
車谷さんご自身、「新潮」で佳作になったあと、車谷さん担当だった編集者から料理人
をしている職場に「もう一度、小説を書きなさい」と誘いに来られ、また、この(その当
時は元)編集者がかなり説得をしますし、東京にふたたび出てからも、原稿の出来がよく
ないと、車谷さんを殴ったり蹴ったりされたそうですが……。
こういう話しを聞いていると、やはり、人は人に引っぱられる。影響される。良い意味
でも悪い意味でも、人間同士の関わりが、その人の後の人生を大きく変えていくものだな
ぁと思いました。
何度もご著作を読んできて、車谷長吉という人の立体像が読者の脳のなかに出来上がっ
てきます。
[わたしは、「四苦八苦」をテーマに小説を書いています。]【本文引用】
ご作品を読んでいて、そうだ、と思います。
どんな作者でも、一作を読んだだけでは著者の立体像は分かりません。
私も、ようやっと車谷ワールドの醍醐味が分かってきたのだと思います。
・車谷長吉さんの他の著作の感想→ 『世界一周恐怖航海記』 『妖談』
コメント
>ビター・スイートさん
ナイスを有り難うございます。(^。^)