何もかも、最初から決まっている、という考え方。

 救われて、神の国にはいれるかどうか、は、一神教の場合、初めから決まっているそうです。

 どれだけ祈ったか、ということも、どれだけ信じたか、ということも関係ありません。

 信者でなくても、神の側の意志によって、最初から、救われるかどうかが決まっている。

 これが、一神教の考え方です。

 一神教とは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教ですが、キリスト教だけ、ちょっと特殊です。

「信じて、悔い改める者は、救われる」または、「信じて、バプテスマを受ける者は救われる」と、聖書に書いてあります。

 人間ですから、何度も罪は犯してしまうものですし、そのたびに悔い改める、という意味です。

 ですが、後者の、バプテスマを受ける、とは、諸説ありますが、洗礼ではなく、聖霊を受けることを指します。

 しかし、一心に祈っても、聖霊がいつ、下るのかは、人間側からは分かりません。

 求めて、早い時期に得ることができる人もあるでしょうが、一生かかっても、聖霊を受けない人もいます。

 だから、キリスト教を信じていても、自分が救われる側に来ているのか分からない人もいるわけです。

 そこで、アメリカのプロテスタントなどでは、救われているから最善の尚かつ全力の活動が出来る、という結果から、逆に考えて、全力で仕事に取り組んでいれば、救われる側に居ることになる、と考えるのです。

 ですから、仕事、仕事、と言うのです。

 でも、この論理も、こじつけにしか過ぎない。(本当は)

 聖霊を受けたことが実感としてわかる体験をした人は、必ず救われる側に居る、ということになるが、そうでない人は、どちらとも言えない状態なわけです。

 それを知っているのは、神だけ、と。

 まあ、心配しなくても、神は理不尽ではなく寛容ですが。

 

 今日、「最初から、物事の結果は、すべて決まっているのではないか」という考えに取り憑かれまして、色々考えてみました。

 努力や忍耐をすることは、大事です。

 努力や忍耐をしたかどうかに因る、結果の差というものもあるでしょう。

 しかし、こうも言えます。

 最初から、その人は、努力することが決まっていた、とも。

 

 私事ですが、人生の転機は、数度ありました。

 そのなかでも、私の人生にとって、一番大きな転機のひとつだったのが、高校時代の体育の授業中の事故です。

 担当の教師が、柔道の時間に、それまで一度もしたことがない、しかも、土俵のない相撲を、背の順番でトーナメントとして余興でやったのです。

 土俵のない相撲が、どう危険かというと、押し出し、という決まり手がないから相手を必ず倒すことになるからです。(柔道なら受け身を覚えて腹筋に力がはいっていますが、相撲の基礎なしに、そういう相撲をやったということです)

 当時、僕は、ガリガリに痩せていました。

 対戦相手も、似たように痩せていました。

 その当時、僕は、バンド活動のほうが大事だったので、相撲の最初は力を入れて取り組んでいましたが、長くなってきたので、「もう、この辺で、別に負けてもええわ」と思って力を抜いたのです。

 覆い被さってくる対戦相手と畳の間に、ちょうどサンドイッチに、上下から圧迫がかかり、下方の肋骨が、バネのような動きをして、脾臓を破ってしまったのです。

 この話を、深い経緯を知らない知人に言うと、「お前、何年前のことを言うとるねや」と言われましたが、正直、この17歳のときの内臓破裂と、その手術のための大量輸血は、その後の僕の進路を大きく変えてしまいました。

 同級生たちには、輸血にも協力してもらって、あとからあとから、それが有り難く思えました。

 体育の担当教師の即席な提案(ルールが変な相撲を余興の親睦ですること)も問題があったでしょう。結果として、対戦相手も、そこまで真剣に押したおさなくてもよかったのに、と言うこともできます。しかし、僕も、「負けてもええわ」と思って力を抜いたことも悪い。

 なるべくしてなった、ということではないでしょうか。

 ときどき思うのは、僕は、まだ相撲に勝ってなくてよかった、ということです。

 勝って、相手に怪我を負わせたら、心が辛いですものね。

 そして、あの事故も含めて、人生の転機は、すべて、最初から決まっていたのではないか、と、思うのですよ。

 他にも大きな転機が、いくつもありますが、妻が死んだことは辛かったです。もう、気がはけそうになるというか、頭がおかしくなってしまうのではないか、と思うくらい悲しかったです。しかし、或る意味男やもめになっていなかったら、小説を毎日書いて投稿することも、既筆原稿を推敲して自費出版することも、多分してなかったし意欲も向かなかった。

 F氏に、内科入院のときに邂逅してないと、本を読む忍耐も持たないままだった、と思います。

 サイマリンガルさんの賞に、最終まで残っているのに、幸福の科学の拠点長に、「キリスト教も、もう終わりですね。戦争が始まりましたから」と言われて、それを総裁が僕に戦争をしかけてきているのだろうか、と思って、サイマリンガルさんに、「幸福の科学と揉めてますが、それは、個人的なことですので、ご心配なさらないでください」とメールしてしまって、恐らく、それが原因で落選したのでしょうが、そうなることも、初めから決まっていたのではないか、と、最近、思うようになりました。あとで知ったのですが、幸福の科学が統一教会に戦争をしかけていた、ということでしたね。僕は、統一教会の信者ではありませんし、そのときにググるべきでしたね。

 今後も、受賞するか、その前に、肝臓癌か肺ガンになって死ぬかも知れませんが、それも、最初から決まっていたことではないか、と思うようになりました。

 矛盾しますが、運命を大きく変えることが出来るのは、祈り、だけですね。

 努力しないでいい、ということではありませんよ。

 卑近な例でいくと、今日、昨夜からアダルトサイトを長々と見て、原稿をすこしだけ書き、それでも寝ないで徹夜する、という僕の行動も、最初から決まっていたような気がします。

 予知力は、すこしあるのですよ。

「今日、徹夜になるかもだから、煙草を多めに買っておくべきではないか」と、自身の声が、昼聞こえてました。

 僕の場合、最悪の事態を予知したら、必ず、最悪の事態になります。

 そのための、それに備えるべき、という予知の信号が必ず出ているのですが、「そこまでには
ならないだろう」と安易に考えてしまうのです。

 どんな場合でも、バックアップとか、保険が重要ですね。

 では、また。

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