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第三回姫路文学館夏期講座に行ってきました。

お名前の漢字やお年など、間違って書いてましたので訂正しました。陳謝。

姫路文学館夏期講座、三回目に行ってきました。

講演、嵐山光三郎 氏

演題、『”古池や蛙飛込む水の音”とは何か』

奥の細道温泉紀行

奥の細道温泉紀行

  • 作者: 嵐山 光三郎
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2006/05/11
  • メディア: 文庫

今回のお話は、僕、芭蕉などに予備知識がなかったので難しかったです。

芭蕉の”古池や蛙飛び込む水の音”という有名な句があるが、この場合の蛙とは何匹なのか、というところに中学生だった嵐山さんは、疑問を持たれて、授業中先生に尋ねると、「そんなのは何匹でもいいんだ」と一蹴されたらしいです。

でも、嵐山さんは、何匹かが気になってしょうがない。

そこで、色んな本を読んでみるのだけれど、どこにも、この芭蕉の句に蛙が複数か単数かは書いてない。

そこで、お父さん、お母さんに尋ねると「一匹だ」と言う。近所の人々にも訊いてまわってみると、やっぱり「一匹だ」と言う。その近所の人のなかでお寺の住職さんだけが、「一匹だ」と仰有った上に納得のいく説明を与えてくださった。

この句を詠んでいたとき、芭蕉は座禅を組んでいたのだ。或いは座禅は組んでないにしろ、悟りの境地を詠っているのだ、と仰有る。心静かにして瞑想に耽っているときに、古池に蛙が飛び込む音が聞こえる。その音が一回響いて、また無音のなかに戻っていく、と。「そんな座禅の場面で、ボチャボチャと何回も蛙が飛び込む音が聞こえたら集中できないだろう」と。

そうかそうか、と嵐山さんは一旦は納得されたのでした。

しかし、近年(最近)外国の詩の会とかに出る機会(取材も含めてでしょうか)が多く、その折に、外国人に、この『古池や~』の句を聞かせて、蛙は何匹でしょう?と質問すると、全員、外国人誰に訊いても、いっぱいだ(複数だ)と答える。

その理由は、池には蛙がいっぱい居るから、と、実に理屈に合っている。

ちょっと待ってください。このまま講演の内容を挙げるのは、嵐山さんの努力を簡単にコピーしてしまう事になるので、はしょります。

『古池や~』の古池とはどんな意味か?

これが、芭蕉はただ古池と詠っているのではなくて、奥の意味があるらしいのです。

芭蕉は、句を観念で詠む、だから奥に別の意味が隠されているということでした。

後、色々話はあったのですが、芭蕉とトボク(トコク)が旅に出ているが二人は実は…などというお話しも。

講演内容が、嵐山さんのご自身で調べられた事実に基づくお話しが多かったので、大幅に端折って、これで終わります。

余談ですが、嵐山光三郎さん今年65歳とプロフィールから認識しましたが、お若いです。昔は60代だったらもう老人という感がありましたが、お話しの口調にも勢いがありました。僕も、もう65歳に21年違いという歳になってます。不思議な感じです。

コメント

  1. 山雨 乃兎 より:

    >kazeさん
    はじめまして。ナイスをありがとうございます。
    どうぞ、よろしくお願いします。(^。^)

  2. sakamono より:

    これだけでも、おもしろいお話でした。自分も質問されたら、やはり1匹だと答えますね。勝手にそういうイメージを持っていました。外国人が「いっぱいだ」と答える、その理由もなんだかおもしろいです^^。

  3. 夕月琥珀 より:

    蛙が一匹だけというのは日本人の侘び寂びみたいな感がありますね。
    あんまりワサワサいられても風流もへったくれもない(笑)

  4. 風のおっちゃん より:

    こんごともよろしくおねがいします。

  5. 山雨 乃兎 より:

    >sakamonoさん
    剰り、嵐山さんのお話しを載せすぎるのもよくないと思って、上記程度にしましたが、実は、講演を最後まで聴いていると、蛙は一匹とも複数とも決めかねる、という感じでした。この句を芭蕉が詠んだ前年に、江戸では『お七の火事』というのがあって、多数の犠牲者が出て、池という池には、熱さから逃れる為に多くの人が飛び込んだ、という事実が有るそうです。ひょっとして芭蕉は、その光景を詠んでいるのかもしれない、という事でした。動物も飛び込み、人間の死体も多分底に眠っているだろう泥泥の池です。
    琥珀さんへの返信コメントで、少し続きを書きますね。
    では、また。(^。^)
    >夕月琥珀さん
    それが、一匹とも言い切れないのですよ。昔の芭蕉が詠んだ句に対になって残っている絵を見るなどして、推論を働かせることしかできないらしいのですが、sakamonoさんへの返信コメントでも書きましたが、芭蕉がこの句を詠んだ前年に江戸で大火事があったらしいのです。動物の死骸や人間の死体が沈んだり浮いている泥泥に汚れた池をイメージして詠まれたのかも知れないということです。しかも、蛙というのは、飛び込まない(普段)。すぅーっと、岸から泳いでいく。しかし、天敵の蛇が急に近くに来たときとか、人間が傍を通ったときは、急いで水に飛び込む、という嵐山さん独自の見解を仰有っていました。そう考えると、大火の折に熱から逃げる為に複数の蛙が池に飛び込む様を詠んだのかも知れない、と、僕は段々講演を聴いている内に思ってしまいました。
    芭蕉の句は、観念で詠まれているらしいです。奥が深いですね。
    では、また。(^。^)
    >kazeさん
    こちらこそ、今後とも拙ブログもよろしくお願いします。
    またお寄りしますね。(^。^)

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