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『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』読了(追記あり)

 保坂和志さんの、『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』を読みました。


「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

  • 作者: 保坂 和志
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2007/10/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 エッセイです。 

 この「三十歳までなんか生きるな」という言葉は、保坂さんが高校三年生の頃、自室の柱に貼り付けよう、と思って紙に書かれた言葉だそうです。

 世間ずれした大人、不潔な大人、合理的な大人、になんか成りたくない。けれども、自分も三十歳を過ぎれば、そうなってしまっているだろうなぁ。決してそうなるなよ、という意味で書かれたそうです。(僕が、本編を精読できていなくて、保坂さんの動機を正確に表していなかったら済みません)

 ご両親に咎められるだろう、と懸念されて、結局貼り紙を柱に貼られなかったそうですが。

 感想は、明日、追記で挙げますね。

 それまで、暫くお待ち下さい。

 

 追記

 世間で常識とされている、物事に対する保坂さん自身の見解を述べた文章。
 ときには、保坂さんの中で結論が出ていないことも、文にする(書く)という事によって、紙面で考えを整理しつつ、新しい解に向かわれる。
 その様子は、哲学そのものだと思った。

 本文より、いくつか例を挙げてみる。
 絵描きになる位ならペンキ屋になれ、という、世間で絵を描いても仕事になんかならない(収入に結びつかない)と考えられていた時代背景と、しかし、画家はその時代でも存在して充分仕事になっていたのだが、一般の人の尺度には、画家で食べていくということが絵空事だった、という、従兄の画家が進路に関して知り合いの商売人に言われた言葉から、保坂さんの思索がはじまる。その人(従兄)は、その後画家として成功されているという。

「あなたにとって、○○とは何ですか」というテレビや雑誌でよく訊かれる馬鹿馬鹿しい(これは、僕の解釈ですが)質問。インタビュアーは、そんなことを訊いても、返ってきた答えを真剣に考えてみる気などない筈なのに、相手に興味があるふりを装って、ただ訊くのだ、と。

 将棋の実力と勝ち負けは一致しない。

 記憶ということについての考察。

 時間という概念の規定についての考察。

 プー太郎が好きだ。つまり、プー太郎を否定的に捉えない。ニートと一括りに呼ぶようになって、社会全体が否定的に捉えるようになった。
 それを延長した論考で、純粋な人に接すると、こちら側のせこさで内心恐縮する、というお話し。噛み砕いて難解な言葉を避けて或るジャンルの内実を伝えようとすると、内容が正確には伝わらないので、難解な言葉を使いつつ(そこは妥協をしないで)懸命に人に自分の研究分野の内容を伝えようとする教授との会話の風景の記憶が述べられていました。

 英語は手段なのに、目的になっている人が多いこと。

 そして、自分が生まれていない可能性を考える、という哲学的問い。それに対する保坂さんの答え。

 アニミズム的世界観、宗教的世界観、科学的世界観、という人類の三つの段階。(フロイトが提唱)これについての考察。
 アニミズム的世界観とは、自分という人間は世界全体に係わっている、自分の些細な言動も、世界に何らかの影響を及ぼす、そして、自分が願えば、何も叶わないことはない、という全能感。(という風に、僕は本文を読んで解釈したのですが、僕は剰り賢くないので、定義を保証するものではありません。間違っていたら、ご容赦を)
 宗教的世界観とは、自分の望むことが実現しない場合がある、と気づき始めた人間、或いは、少年が、叶わないところを神に願うことを始める。そして、正確な意味の定義では、神に願っても叶わないこともあるし、ときには、厄災が降りかかることもある。それらを神の意志として、神を主体、人間を客体として、諦める、或いは神の意志をどんな事であっても受け容れる、というのが、宗教的世界観。
 科学的世界観というのは、どこまでも、科学で、人間に理解可能に近づけようとする。そして、何より、神は居ないのだ、という考え方。世界は、自分の生きているときにはアプローチすることが出来るが、自分が死んでしまったら全く影響を及ぼすことは出来ないのだ、という世界観。(これも、僕の鈍い頭で整理したので、多分に間違っている定義説明になっているかも知れません。どうぞ、ご容赦ください)
 こういう(フロイトの提唱した)世界観の変化について、保坂さんの独自の見解が思索しながら展開される。

 ざっと、本文の紹介にばかりなってしまいましたが、「この考えに対して、僕はこう」とはなかなか言えるレベルに僕が立っていないので、これ位で終わりにします。

 感想としては、哲学的問いを、或いは定説を疑問視し、固まりきっていない自分の考えを紙の上で書いていくことによって最終的に、なんとなくというレベルであったとしても解を見出す。或いは、こうではないか、という処に落ちつくという思索は、愉しいものだな、と感じました。
 結論同士をぶつけ合う議論も、内実としては一人で思索することと似たような事をやっていることになるのかも知れません。

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コメント

  1. sakamono より:

    保坂和志さんは好きな作家なので、この本を知った時には読んでみたいなぁ、と思っていました。なるほど、おもしろそうですね。

  2. 山雨 乃兎 より:

    >sakamonoさん
    僕は、保坂さんの小説は、まだ一作しか読んでません。でも、保坂さんクラスの作品だと文学の読みごたえがありますね。
    この本は、何だか思索を展開されていて、難しいところもありました。
    読みごたえありです。

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