正月明け早々は、もっと、ぐっすりと眠って清々しい記事を挙げるべきなのだが、Google
のページランクに、ここ二年Googleの方では大晦日に更新があったから私のページも更
新されるべきなのに、何かの事情でランクをつけられなかったという私自身の鬱憤を抱え
ての現在の状態なので、「鬱陶しい記事だな」と思う向きもあるだろうが、倫理、道徳に
ついての話しをする。
明けてまだ数時間しか経っておらず、しかし記述するとすれば去年のことになるのだが、
大晦日にコインランドリーに行った。
私は、そういうとき単体行動なのだが、運悪く家族連れが来ていた。
周りに自分とは別の個人が居るおおやけの場で、どうして、あんなに大声で家族同士で
コミュニケーションをとるのだろうか。
喋るということは、気を吐き出している訳である。
すなわち、喋っている人は、どんどん楽になるのだ。
そういう場では、一人の人はしゃべり相手を持たない。(すなわち、単体の人はストレ
スを溜め込むだけである)
グループダイナミクスという言葉があるが、グループだと喋れる大義名分を得ているの
だ。何しろ、喋るべき相手が居るのだから。
そういうとき、どうして個人で来ている人の立場に置き換わって遠慮しないのだろうか。
旅行でもそうである。
団体客と個人の客が同じフロアに居合わせる場面ができたとして、団体客が個人の客の
ことなどお構いなしに自分たちだけで、大きな声で喋るのは、人の気持ちを考えない低脳
な人間のすることである。
今回、コインランドリーでは、当該の人は家族にケイタイで電話までして大きな声で喋
っていた。
私の知人から漏れ聞くところによると、長距離移動の夜行バスなどに乗れば、決まって小母ち
ゃんたちが大きな声で会話するそうである。個人で乗っている客が居るのを分かってい
るのにである。
しかし、小母ちゃんたち、結局、大体一時間ほどで黙ってしまうそうである。話題がな
くなるのだろう。
今回のコインランドリー行きの件でも、人が大勢集まっている場で平気で大きな音で乾
燥機を閉める人も居た。
自分たちが喋りたいのなら、単体の人に、相手が快くなるように声をかければよい。会
話の輪に単身の人をうまく引き込めばよいのだ。そうすることによって、単体の人も大義
名分を得て喋ることができる。
だが、それが現代人、まるで出来ない。
個人でその場に居る人には発言する自然性がない。それだけ不利である。
そういう事に斟酌できないのだから、現代人は低脳である。
道徳教育の問題ではない。
相手がどう感じているかは分かっている筈なので、恣意的にそういう行動をとる愚鈍さ
(或いは、狡猾さ)と言わざるを得ない。
コメント
あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
↑ 私も気をつけますね^^
>タックンさん
こちらこそ、本年もよろしくお願い致します。
記事の方は、自分なりに顧みてなんて四角いことを言っているのだ?と、あとで思いましたが、自分が団体の立場に立ってるときは最善なる行動が自身もとれていないのかも知れません。時代が変わりましたね。昔のように他人同士が一言、二言を交わし合う世の中に戻ったらいいのに、と少し思います。
また、お寄りしますね。(^。^)