Gyaoでやっていた、『寝ずの番』を観ました。
中島らもさんが原作だったとは、後で知りました。
或る落語家一家の師匠の葬式からはじまって、歳が近いのか、その下の弟子(かなり売れっ子になっていた兄弟子)が死に、その葬式、そして、師匠の女将さんの葬式、とストーリーとしてはつづきます。
葬式よりも、お通夜のあとにご遺体を見守って夜を越す、その時間に焦点が当てられています。
性行為そのものや、女性の性器の俗語が頻繁に出演者からは出てきますが、それでいいのだと思います。
人間、何のために生きているかと言えば、やはり異性とセックスしたいために生きているのです。
いくら高尚なことを言っても、そこは、誰も同じです。
故人を偲ぶ通夜の晩の、死人を見送る番としての、寝ずの番です。
この故人を偲んでの馬鹿騒ぎ、あっていいのだと思います。
故人との記憶をもとに宴会は繰り広げられるのですから、このときに、何も出てこないのでは、故人に人間としての幅がなかった、と思われかねないもの。
現代のコミュニケーションがなくなっている現状に対して、やはり、この映画のような場面が、もっとあっていいのではないだろうか、と思わされました。
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同じ、死者を偲んで語らう、という意味では、拙小説作品、『あいつのおかげで』も同じ要素を実現しています。
一度、読んでみてください。『あいつのおかげで』へのリンク→ http://nousagi-yamame.blog.so-net.ne.jp/2008-09-30-1
コメント
>ビター・スイートさん
ナイスを有り難うございます。(^。^)