監督:石井裕也さん 原作:辺見庸さん 脚本:石井裕也さん 主演:宮沢りえさんの、映画『月』を観ました。
例によって感想は、追記をお待ちください。
追記・感想
相模原障害者施設殺傷事件をフィクション化した映画です。
原作もあります。
原作の小説と、映画でのストーリー・設定は違っているようです。
Amazonプライムで本編を見始めて、障害者施設が出てくることは知っていたのですが、相模原障害者施設殺傷事件そのものを描いた作品とは気づきませんでした。
最初から重いです。
それは、フィクションとして付加された主人公、堂島洋子が、重度の心臓疾患をもって産まれた我が子を、三歳で失ってしまうというトラウマを抱えているからです。
洋子と夫の昌平が、通勤で家から出て外を歩いているときに、幼児を連れた母子とすれ違いますが、そのときの二人の反応が、過去のトラウマから脱却できていないのを描いていましたが、僕の感想としては、こういうシチュエーションで、そこまでの反応をいちいちするかな、とも思いました。
洋子は、新人賞をとって一作ヒットさせた小説家です。
ですが、次の作品が書けず、生活費を稼ぐために障害者施設に派遣スタッフとして勤めるわけです。
その障害者施設は、森の中にあります。社会から遠ざけられて、一般の人の目に触れないようになっているのです。
相模原障害者施設殺傷事件のニュースをみたときは、「酷いことする奴だな。人の心もないな」と思いました。
しかし、この映画をみていると、スタッフは、障害者から大きなストレス、長期的なストレスを受けるのも事実だな、と思いました。(実際の現実で起こった相模原障害者施設が、映画本編のような情況だったかは不明ですが)
障害者が暴れる。障害者に噛みつかれる。そういうことはあります。
だからといって、障害者に暴力をふるったり、必要のない長期間の身体拘束をしなくてもいいでしょう。
精神病院でも介護施設でも同様に言えることですが、利用者や患者の臭いとか暴力にストレスを感じて自分も利用者や患者に暴力をふるってしまうなら、そういう人は、スタッフに向いていないので、他の仕事を探すべきです。
犯人の動機が、主人公との対話によって深く語られます。ここは、この映画の大きな見せ場だと思いました。
話すことが出来ない。意思疎通が出来ない人は、「心」を持っていない。だから人間ではない。そういう人は、生きていることが本人にも不幸だし、社会にも害悪である、という論理で、殺人を実行しようとしていることを、スタッフのさとくんは語ります。
ここで思ったのですが、意思疎通ができなくても、本人には周りがみえていて、音も聞こえている場合もあるのじゃないか、ということです。(光に対する反射・反応がない場合でも、見えている場合もあるのではないか、と)
そして、周りと意思疎通ができなくても、生きている限り、本人の内部世界は進行しています。心を現さなくても、内部で心の動きはあるはずです。
洋子と夫の昌平の夫婦生活が、視聴者を一人称視点から見る大きな事件という図式にしていて、リアル感が余計増しました。
洋子は、小説を本業として成功させたい。夫の昌平は、映画づくりを本業としたい。どちらも簡単には実現できることではありませんが、生業を掛け持ちしながらの地道な努力に、みていて感銘を受けました。
最後に、この映画にも現実の相模原障害者施設殺傷事件にも言える感想ですが、犯人が優生思想に浸って犯行を企て、【衆議院議長公邸を訪れて衆議院議長の大島理森に宛てた『犯行予告』とされる内容の手紙を職員に手渡した】(Wikipediaより引用)こういう事実があり、一旦精神科へ措置入院にもなっているのにも関わらず、2週間で退院し、その後犯行に至った事実を思うと、もっと事件を回避する方法は有ったのでは? と思います。
精神科医は、自傷他害の恐れがあるかないかをみていますが、それは、精神が異常な状態に留まっているか、を判断しているのであり、この事件のような、犯人が精神的には正常な状態にも関わらず、思想として、しかも実行しようという意志も内在した思想を持っている場合、精神科医は、それを見抜き、社会に復帰させないという判断をすべきではないのか、と思いました。
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