アーサー・ミラー氏の、『セールスマンの死』を読みました。
戯曲は初めて読みました。
本文終盤の、チャーリーの言葉が人生を普遍的に捉えているような気がします。大きな社会の中の似たような個というナラティブストラクチャーでもあると思う。
『誰もこの人を責めるわけにはいかない。(中略)ウィリーはセールスマンだった。セールスマンには基盤というものがないのだ。(中略)セールスマンは夢に生きるものなのだ。その夢は受け持ち区域にあるのだ。』(本文抜粋引用)
二人の息子が、もう少しで一人前になろうという頃、主人公ウィリーは、もう昔のようには成績が伸びず、馘を言い渡される。
本文中に象徴的に出されてくるタイトルと同名の戯曲か映画の話題。(間違ってたらごめんなさい。ちょっと再読しても、その場面を探せなかったので)
アメリカも当時、戦後の経済成長期にあった。
毎日、少ない給料でやりくりして、ローンで電化製品などを買う。そのローンが終わる頃には、製品は故障して使えなくなっている。自分には手に職に価するものは何一つない主人公ウィリー。ひたすら、人に好かれる人間関係を築くことで成績を伸ばし、長年家族を養ってきた。
その息子との関係にも、或ることから齟齬が生じる。
ウィリーが浮気している所に、たまたま息子がやってきて事実が決定的に思春期の息子に突きつけられる。
合計二日間という戯曲の中の時間の流れの早い段階から、ウィリーは既に自殺を決意している。そして、その保険金を息子の為に残そうとしている。
カットバック(フラッシュバック)で描かれる、華やかだった頃。
自分の身一つで、成果を挙げていかなければ貧しい生活を余儀なくされる。これは、後記で岡崎涼子さんも仰有っている何もかもが民営化されて糧を得る為の戦いに誰もが晒されようとしている現代にも痛切に問われてくる人間(社会)模様劇ではないか、と思う。
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