諏訪哲二さんの、『オレ様化する子どもたち』を読みました。
- 本を読んでいて、この本に対する感想ではありませんが、心に浮かんだことがありました。
現代では、何で、子供を叩けないのだろう。(教師が)
教師が子供を叩いたら、暴力事件として扱われるというのは、いつごろからなのでしょう。
教育指導要領にも叩いてはいけないと書いてあるらしい。そういう変化はいつ起こったのだろう。
何度口で言っても、子供が、わざと授業妨害してくるような場面では、叩くしか済まないのではないだろうか。
さて、著者は、「子供はあどけない者。子供に罪はない」周りが悪いのだ、という子供性善説ではない。
明らかに、子供がおかしいらしいのだ。
だから、その子供をどう変えるか、精神的な成長を含めた教育を、どのようにしたらベストだろうかを語っている。
(子供たちは)客観的な目で見た私というものを意識せず、自我=この私、が行動基準になってしまっているようです。
農業社会から産業社会へ、そして、消費社会への変化。
個を重要にすることから、教育が贈与ではなく、等価交換になってしまった。
贈与であれば、与える側、受けとる側の縦の関係が成立している。
それが、対等な等価交換になってしまった。
子供は不完全な個である。
日本は個人主義を輸入したが、欧米の個人主義の超絶対者に服従する(神がいつも見ているから、行動を律しなければならない)という部分がなく、教師が、欧米で言えば教会の牧師のような面も持つことで成り立っていた。
自己実現とは、自分が不完全であることを認識して、社会から知識を導入してゆくことによって、さらに研鑽を積むことによって達成する。
そして、今の子供が大きく変化してしまった、自立した個になってしまったのは、昭和55年辺りかららしい。そして、決定的に変わってしまったのは、1980年代半ばかららしい。
【ちなみに、私は、昭和55年で高校二年生だった。校内暴力が問題視されかけた年代らしい。だが、その4年ほど前から私たちの地元の中学は、酷い校内暴力の状態だった。校内暴力は、偏差値一辺倒の教育で勉強ができないとのけ者にされたように感じた子供の意識が動機だったと推測されている。
余談だが、本当にその当時の中学は酷いものだった。毎日のように窓ガラスが割られ、便所の戸は蹴破られ、生徒が煙草を喫うので、男子トイレは全部戸が取り外された。不良ではない者までもが、耐震センサーにわざと物を当てて、非常ベルが鳴ったり、消化器が突然、生徒によって廊下に撒かれたり、という酷いものだった。その代わり、教師も毅然と対処していた。教師が生徒を叩くこともできた。】
なぜ、他者を否定する個になったのかというと、「お金さえあれば、世の中どうにでもなる。」という意識変化かららしい。世界の大きな流れのグローバル化が原因しているらしい。今現在もグローバル化に反対している国はある。ただ、グローバル化を望んで受け容れていった国のなかに、弊害が生まれている。
世の中、お金を持っていれば物が買える消費者となる。
協調性や他人の為に働くという行動を抜きにして、一人前の消費者になることができる。それが、子供たちに大きな錯覚をもたらした。
そして、子供が変化した原因は、内社会(学校、地域、家庭)の変化に全部の原因があるのではなく、マスメディアなどの発達による情報過多(情報氾濫)や、完全な消費型社会への移行(お金さえあれば、何でも手にすることができる社会。需要と供給の変化が要因だと私の見解もプラスして論ずることができる。金がいくらあっても、物(製品、商品)に限りがある場合、買うことは出来ない。完全消費型社会だと誰もが、お金がある限り、お客様の立場で居ることが出来ること)などが、大きく子供を変えているらしい。
子供の全能感が、一喝される場面もないので、増長されていくという事。
つまり、物が買えれば(親の金であっても)一人前意識を持つ。そして、大人を舐めてくるという事だろうか。
結論として、グローバル化が、子供のオレ様化の原因だが、子供を変えるには、グローバル化を受け容れないという方法ではなく、やはり教育の内部(学校、地域、親(家庭))から、子供を教育していくしかない、と著者は締めくくっていた。
商業主義的個人主義を全部よいものとして受け容れるのでなく、共同体意識を大事にすべきだと、改めて感じる時代になってきた。よしんば、個人主義に行き着くとしても、社会的認識(倫理、集団に馴染む行動規範など)を身につける段階が必要になってくる、と著者は締めくくっていた。
今度は、1980年代半ばから、何故子供が決定的に変化したのか。何故なのか、子供を大人と同じ対等として教壇をなくした教育。さらに、体罰ではなく、授業遂行のために荒れる子供を、何故叩けなくなってしまった(社会がそうすべきでない、という風潮(さらには法律も含めて))のか、について他の本を読んでみたい、と思った。
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