僕の部屋のテレビは、去年の十月(多分ですが)ぐらいから、寿命でまったく画面が映らなくなりました。
荒俣宏さんが仰有ってたように、だんだん画面のサイズが縦に圧縮されて、最後は一本の線になって、それでも、電源を入れてから何分かすると画面が表示されていたのですが、最終的に、一時間待っても画面が出なくなり、それと時を同じくしてリモコンの電池もなくなったので、この一年は、自室ではまったくテレビを観ていません。
家族と団らんする居間にはテレビがあるのですが、それもほとんど見なくなりました。
NHKの連ドラが面白くなくなって、頼みの綱の「そこまで言って委員会」さえも、最近は面白くなくなってしまいました。大河ドラマは、見れば嵌ることは分かっていますが、45分という時間をテレビのまえで過ごすというのに耐えられません。
読書なら、好きなときに読んで、途中でも切り上げることも自由ですから、楽しみは読書です。
「そこまで言って委員会」は、最近は、政治と外交の話しばかりです。
それに、ディベート型の番組ですね。それでも、どうにかついていけてたのですが、ディベートは第三者として見るのはしんどいです。
薄々、だいぶ前から気づいて(2、3年前から)いたのですが、「そこまで言って委員会」という番組スタイルは、多分、アメリカのディベート番組の真似ですね。中身ではありませんよ。スタイルのことです。あの、パネラー全員がまえを向いて、横の人と議論させる形です。
ディベートって、内心、「オレが勝った!」と思えるのが楽しいのでしょう。
本当の意味の議論は、勝った負けたではありませんのにね。
自分がどれだけ知識を持っているか。自分が、どれだけその問題に対して新奇な案を持っているか。そういうことを披見しあって、相手を打ち負かすのが、果たして議論なのか。
勝つためには、ずるい作戦も敢えて使う人も居るでしょうし、たとえばの話しですよ。「というか」などと相手の発言を一旦受けるわけです。それで、まったく相手の言ってることと内容が同じことを語彙や言いまわしを変えて「私は違う意見だ(だから私の方が賢い)」あるいは、「君の意見には不足があったから補ってやった(やはり、だから私の方が賢い)」と第三者に見えるように発言する方法ですね。いくらでも、テクニックはあるのです。
哲学の場合は対話しながら、全体のその場の考えが変化していくことそのものを楽しむわけですし。
何かを建設的に結論を出して、その結論を最終的にどこかに働きかけようとするのが、有意義な議論だと思うんです。
自分の考え方などは、相手の意見を聞いているうちに変化していってもいいと思うのです。(自分の生き方と言えるほどの主義やポリシーが変化するときは、何故変化したかを周りに充分に説明しなければなりませんが)
「その部分は、私の勉強不足だった」とか「その部分は貴方の考えを聞いて、今、考え方が変わった」とか、言えばいいのです。
あんなに感情に載せて激論して、相手を打ち負かす、ということをしないでもいいと思うのですが、まだ、そういう傾向が「TVタックル」より益しだから見ていたのですが……。
硬軟とりまぜて、ということでしたが、最近は「政治と外交」の話しばっかりです。
それが一番大事なのは分かりますが。
それに、あれだけディベートしても、そのことが社会に良い意味で影響していっているのでしょうか。
きついようですが、個人対個人の打ち負かし合いにしかなってないように感じます。
改善してもらうとすれば、
・新奇な提案を披露すること
・知識の量の差での打ち負かし合いをしないこと
・パネラーの人生の遍歴の披露なども含めて、普通の人が悩むような問題も議題として採り上げること
と、まあ、そんな風に思います。
地上波デジタル放送が始まりますが、もう自室ではテレビを廃止しようと思っています。
見たい番組が一つもない。
ニュースは、ヤフー動画ニュースで見られるし、どうしても詳しい見解を書いた記事を読みたければコンビニで新聞を買ってきますし。
どうしてもオンタイムでテレビ放送が観たければ、キーホールTVでも見られるしね。